信長からの手紙に寧々感激

長浜時代には、秀吉の姉である、ともの子を養子としたことがございます。私たちには子どもが授からず諦めかけている頃に、義姉に3人目の子が生まれました。そこで、私に子が生まれたらそちらを跡継ぎにするという条件で、とりあえず養子にすることを承知いたしました。

しかし、この子は、天正4年(1576年)10月14日に亡くなってしまいました。そこで、秀吉はきちんとした形で側室を置きたいと言い出しました。そこで、私は秀吉が播磨に出かけているうちに、安土の信長さまのところにご挨拶に行って、世間話をしているときに愚痴などもらしたところ、信長さまからお手紙をいただいたのでございます。

「このほど、安土に初めて尋ねてくれて嬉しく思う。その上に、土産の数々も美しく見事でとても言葉では表せないほどである。お返しに、私の方からも「何を差し上げたい」と思ったが、そなたの土産があまりにも見事なので、何を返したら良いのか思いつかない。この度はやめて、そなたが今度来た時にでも渡そうと思う。そなたの美しさも、いつぞや会った時よりも、十の物が二十になるほど美しくなっている。藤吉郎が何か不足を申しているとのことだが、言語同断でけしからんことだ。どこを探しても、そなたほどの女を二度とあの禿ねずみは見付けることができないだろう。これより先は、身の持ち方を陽快にして、女将さんらしく重々しくし、やきもちなどは妬かないように。ただし、女房の役目として、言いたいことがある時は、言いたいことをぜんぶ言うのではなく、ほどほどに止めておくとよい。この手紙は、羽柴にも見せるように」

誠に温かいお心遣いでございました。そして間もなく、秀吉に信長さまから話があったらしく、信長さまの4番目のお子である於次丸さまを養子にせよということになりました。

秀吉が申すに、信長さまは「この子は寧々にやるのだ。だから、お前の妾にこれから子ができても、寧々の子である於次丸が跡を継ぐのは当然ということだ」と仰ったようでございます。

▲まさに信長さまはスパダリ(スーパーダーリン)です イラスト:ウッケツハルコ

そんなわけで、秀吉が側室を置くことは、信長さまも公認のようにはなりましたが、私の立場も、秀吉の妻であり、嫡子である於次丸の母ということになり、気持ちの切り替えをすることにしたわけです。

秀吉の中国征伐で初陣を飾った於次丸だったが・・・

さて、於次丸(のちの秀勝)が長浜にやってまいりましたのは、天正5年(1577年)のことで、数えで10歳でございました。秀勝の傅役としては、お市の方に従って織田家から浅井家に入り、お市の方と三姉妹を連れて小谷城を脱出した藤掛永勝がやってきました。

やがて元服して秀勝と名乗り、天正9年(1582年)頃からは、秀吉の代理で領内に公文書を出すことも多くなりました。

本能寺の変があった天正10年(1582年)には、秀吉の中国征伐について備中へ向かい、3月17日、備前児島の常山城攻めで初陣を果たし、高松城攻めに参加しているときに、信長さまの凶事を知ることになります。

山崎の戦いに参加したのち、大徳寺で行われた信長さまの葬儀で棺を担いだりし、清洲会議では明智光秀さまの遺領である丹波亀山城の城主となり、賤ヶ岳の戦いや小牧長久手の戦いでも活躍いたしました。

▲亀山城跡 出典:PIXTA

従五位下・丹波守から始まり、天正13年(1585年)には、正三位・権中納言になりましたが、体調を崩し12月10日に丹波亀山城で死んでしまいました。18歳でございました。最後は信長さまが亡くなってからのことなので、実の母が看取ることになりました。

※ 長浜時代の家来については、『近世への扉を開いた羽柴秀吉』 (太田浩司著・淡海文庫)に基本的には従った。また、同氏は森岡榮一「長浜在城時代の家臣団」(『豊臣秀吉事典』新人物往来社)から多くを引用されている。また、太田氏の同著については、長浜時代の問題全般にわたって参考にしている。

※ 石松丸秀勝については、実子説もあるが母親は見当がつかないし、養子説も確度の高い情報はない。そのなかで秀次の兄弟というのは、菩提寺が秀吉の姉ともが帰依していた日蓮宗系であることや、秀次、秀勝と三男の秀保まで年の差が大きいことなどもあって、相対的に説明しやすいので仮に採用した。

※ 竹生島奉加帳という文書に「南殿」という側室とも見える女性の名があるが、これが石松丸の母だとしたら、何か伝承があってもよさそうなものだ。長浜の曳山祭が石松丸の誕生を祝って始められたというのは、間違いとも正しいともなんともいえない。