サバイバルゲーム(通称:サバゲ―)に出会い、人生が一変したりりあんぬ葵さん。友達から誘われたときは「何それ? 銃を持って走り回るの?」くらいだったが、実際にサバゲ―をプレーした感想は「気持ちいい!」だったという。サバゲーを始めてからは生活も一変したりりあんぬ葵さんに、学生時代のことやご家族のお話、そして今後の展望を聞いてみました。

いじめにあっていた学生時代

――私生活のことも聞かせてください。お仕事は何をされているんですか?

りりあんぬ葵 通訳・翻訳家をしています。コロナ禍になる前は、海外によく行っていました。生まれ育ったアメリカ、あとは韓国、中国、台湾などが多かったです。

私の家庭は少し複雑なんです。生まれ育ったのがアメリカのカリフォルニア。父が生まれたのは韓国で、血は台湾と中国。だけど、アメリカ人に帰化しました。なので、アジア系アメリカ人になりますね。母は日本の長崎で生まれ育って、駐在員としてアメリカで働いていた頃に父と出会って結婚したそうです。そして、5人の子どもが生まれました。

――りりあんぬさんは、何番目なんですか?

りりあんぬ葵 真ん中の3番目で、内訳は姉、姉、私、弟、弟です。

――自分がどんな子どもだったか覚えていますか?

りりあんぬ葵 性格的には、音楽が大好きで、ミュージカルとかエンターテインメントとか、そっち系の目立つことが大好きでした。姉弟の真ん中って一番見てもらえないんですよ。一番上のお姉ちゃんは手がかかって、二番目は優秀で、私がいて下に弟が二人いたので、また見てもらえなくて……。

小さい頃から、目立ちたくて「私を見て!」って、親にいっぱいアピールしていました。意味もなく奇声をあげていた頃もありますね(苦笑)。奇声をあげて親が「どうしたの? 大丈夫?」って声を掛けてくれたら、「ははっ!」みたいなリアクションをして。まわりの興味を引きたかったんだと思います。

▲自身の幼少期について語ってくれた

――小中高はアメリカで過ごされたんですか?

りりあんぬ葵 そこもまたややこしいんですけど、小中高は日本とアメリカを行ったり来たりしながら生活をしていました。実は、小中高はずっといじめられていたんです。「日本人の見た目なのに日本語が喋れない子」って。姉弟は英語でコミュニケーションをとるから「姉弟でいつも英語で喋っていて、調子に乗っている」という見られ方をされていました。

正直、つらいなと思う日々だったんですけど、母が負けず嫌いだったので「あんた絶対学校休むんじゃないよ! 行きなさい!」みたいなタイプだったので、「うぅ~(泣)」って言いながら学校に行っていました。いま思うと、良くも悪くも目立っていたと思います。勉強が嫌いだったので、ずっと歌ってたり、ずっとギター弾いてたり……。群れない感じでした。

――学生時代から確固たる自分があるという感じだったのですね。大学は日本とアメリカ、どちらに行かれたんですか?

りりあんぬ葵 最初は日本の大学に入学したんですが、そのあとに中国の上海にある大学に通いました。だいぶ忘れてしまいましたが、当時は中国語を喋ることもできました。いまも読み書きくらいだったらできるかなっていう感じです。

いまの仕事をする前は、音楽系の仕事を中国でやっていました。それから日本に住むことになり、通訳・翻訳家に変わったという経歴です。こうやって改めて振り返ると、我ながら波瀾万丈な人生だなと思います(笑)。