徳川家の首をつないだ大地震

德川家康さまが、秀吉の説得に応じて大坂城にお見えになったのは、天正14年10月26日のことでございました。すでにお話ししましたように、この背景としては、前年の天正13年11月に石川数正さまたちの豊臣方への寝返りということがあって、秀吉はいよいよ徳川の息の根を止めようと準備をしていたのです。

ところが、11月29日に「天正地震」といわれる大地震がございました。被害が大きかったのは越中・飛騨・美濃・近江・尾張・伊勢あたりで、越中の木舟城(高岡市)では前田利家さまの弟の秀継さま、長浜では山内一豊さまの一人娘である祢姫さまが亡くなり、織田信雄さまの本拠だった伊勢長島城や、美濃の大垣城なども壊れてしまいました。

▲現在の大垣城 出典:nisseikikaku / PIXTA

そこで秀吉も、この地方ですぐに兵を動かすのを憚られるようなことになりました。それに加えて九州情勢の緊迫もあり、家康さまを懐柔することにしました。次の年の1月には、織田信雄さまが岡崎で家康さまとお会いになり、それを受けて2月に家康さまを「赦免」にいたしました。

さらに5月には、妹の旭を家康さまの夫人として駿府に送りました。それから、本能寺の変のあとに家康さまの軍門に降りながら、すでに秀吉のもとに寝返っていた木曽義昌さまや小笠原貞慶さま、真田昌幸さまを家康さまの与力ということで配下として戻し、上杉景勝さまの支配地以外の信濃を家康さまの領地と認めました。

もっとも、これに真田さまは怒り、従わなかったので、秀吉は「真田成敗」を家康さまに命じたのですが、やがて上杉景勝さまのとりなしもあって真田は赦されました。

しかし、家康さまは疑い深く、なおも上洛を拒まれましたが、さらに秀吉が母であるなかを、朝日への見舞いということで岡崎に人質として送るということにしたので、ようやく家康さまは上洛されたのでございます。

岡崎の徳川家臣には、いかにも人質らしく義母を扱おうとする“わからず屋”もいて、義母の部屋の近くに薪などを積んで脅したりしていたそうですが、若い井伊直政という武士が丁寧に対応してくれたそうで、義母は大坂に帰ってから秀吉に取り立てるように勧めておりました。

直政が、古参の本多・榊原・酒井といった者と同格になったのは、この秀吉の母に気に入られたのがきっかけになっております。

大坂へやって来た家康さまは、秀長の屋敷に入られました。その夜は、秀長が饗宴を差し上げたのですが、そこへ秀吉がサプライズとして参加し、無事に帰れるかを心配して緊張されていた家康さまを安心させたのです。

そのとき、秀吉が「我が義弟である家康殿に特別なお願いなのだが、やはり弟である秀長同様に慇懃に挨拶していただけまいか。この秀吉、伏してお願いする」と言ったという人もいます。そういう言い回しをしたかどうかは知りませんが、家康さまが自然に臣下の礼をとれるように、流れを上手につくったのかといわれれば、その通りでございましょう。

そして大坂城では、家康さまが、ペルシャという異国から渡来の絨毯を仕立て直した秀吉の白い陣羽織を所望されました。誰の知恵か知りませんけれども、家康さまは「殿下の陣羽織を私にいただきとうございます。殿下に刃向かう者は私にお任せいただいたら成敗いたしますから、殿下に陣羽織は不要でございましょう」と言われたそうで、秀吉も「おのおの方、聞かれたであろう。わしはよき妹婿をもった果報者よ」というようなやりとりをしたとのことで、私はその場におりませんでしたが、あとで聞いて大笑いをいたしました。

家康さまは秀吉と一緒に京に上り、従二位権大納言となられたので、政権ナンバーツーの信雄さまに次いで、秀長と同格の親戚扱いとなられたわけです。

秀吉が特別視していた蜂須賀小六

ここに至るまでに、秀吉は紀州と四国を攻め、上杉景勝さまを上洛させました。そのあたりのことを、時間を追って説明しておきましょう。

秀吉と織田信雄さまの和議が成立し、このときから家康さまと敵対関係ではなくなりました。家康さまの次男である於義丸(のちの秀康)がやってきたのが、天正12年(1584年)11月から12月にかけてのことでございます。この頃、私どもの養子で信長さまの四男の秀勝が、大坂城で毛利輝元さまの養女の姫と祝言をあげ、毛利との関係が強化されました。

翌年の天正13年(1585年)になると、1月には毛利輝元さまとのあいだで、小早川隆景さまが窓口になって宇喜多と毛利の境界が定められ、あわせて毛利さまに伊予の領有を認めることになりました。

2月には織田信雄さまが大阪にお見えになり、3月から4月にかけては、秀長や秀次が10万の大軍で紀州攻めをしました。そして、抵抗の中心になっていた根来寺(岩出市)を焼き払い、太田城(和歌山市)を水攻めにし、鉄砲隊として本願寺と与(くみ)して信長さまを苦しめた雑賀衆を降伏させました。 

その6月には、信長さまからの懸案事項だった四国攻めに踏み切りました。長宗我部は信雄さまと家康さまの連合についたので、秀吉と対立することになりました。その後、阿波と讃岐からは撤退するのは承知したのですが、伊予では水軍で有名な河野氏の当主、河野通直の母親が毛利元就の孫である一方、土豪たちには長宗我部になびくものも多くて揉めていました。しかし、この1月に伊予は毛利の勢力圏とすることで、秀吉と毛利で話ができたのです。

しかし、長宗我部はすぐに伊予から撤退というわけにはいかず、秀長さまを総大将として、秀次や秀勝も参加した軍勢が6月16日に出陣しました。この四国攻めでは、阿波一宮城攻防戦くらいが大きな戦いで、長宗我部さまも土佐一国を安堵されて8月6日に降伏しました。

四国の仕置きは8月23日に発表され、秀吉は阿波の大部分を蜂須賀小六さまに与えようとしましたが、小六さまのたっての願いで、嫡男の家政さまに差し上げることになったのは、やはり小六さまが秀吉にとって特別の存在だったということです。

▲江南市蜂須賀屋敷跡 出典:sobue4484 / PIXTA

また、讃岐は美濃出身の仙石秀久に与えられましたが、一部は三好長慶さまの甥である十河存保に保留されました。そして、伊予は小早川隆景さまに任され、そのなかで安国寺恵瓊さまなども領地をもらいました。河野通直さまは、大叔父にあたる小早川隆景さまの客分のような形になりました。

秀吉が関白になったのは、この四国攻めの最中でした。