秀吉「大坂に安土より立派な城を作る!」

清洲会議で、長浜城を柴田勝豊さまに譲ることになったので、私たちは京都と大坂のあいだにある山崎へ移って参りました。山崎の町は、今では京都府の大山崎町と、大阪府の島本市に分かれておりますが、昔は山城と摂津の国境にまたがって、ひとつの町になって油の座が営まれて栄えた町でございました。

あの斎藤道三さまは、ここの油商人だったという人もおられますが、それは、どうも、なんと言いますか、今でいう都市伝説のようでございます。

千利休さまが作られたお茶室として、国宝になっている妙喜庵(待庵)は山城側、サントリーの醸造所は摂津側にございます。

▲妙喜庵 出典:ilovealpha / PIXTA

大阪湾から淀川を遡上してくると、無理すれば鳥羽のあたりまで行けますが、大きな船はここまででした。紀貫之さまという歌を詠む方が、赴任先の土佐から戻ってこられて上陸されたのもこちらです。

秀吉は天王山の頂上と、淀川の反対側で石清水八幡宮がある男山に城を築き、麓に御殿を建て、山崎の町を城下町代わりにしたのですが、土地も狭く、仮の住まいといった印象でした。

長浜での快適な生活に比べて生活の質は落ちたので、女たちは不満を言っておりました。秀吉は「1、2年の我慢じゃ」と取り合ってくれませんでしたが、私がしつこく不満を言うと「大坂は良さそうじゃ。信長さまも、石山本願寺が退去したあと、誰にも渡さんで丹羽長秀さまに預けておられた。どうも、自分で城を築くつもりだった様子じゃった。安土城を信忠さまに譲り、ご自分の城にするおつもりか、あるいは信忠さまを岐阜から大坂に移すつもりだったのかはわからんが……」とか言うのです。

私がどうしてかと聞くと「なにしろ、あの石山本願寺が信長さまと10年も争い、本格的な攻撃が始まってから、4年も持ちこたえた要害の地じゃ」「堺にも近いし、京までも安土からよりも近い」「しかも、日本中はおろか、唐土や南蛮まで海でつながっておる」「清洲会議で本当は欲しかったのだが、信長さまが城を築こうとしておられたのはみんな知っておるから、それを欲しいというと警戒されるだろうから、とりあえず池田恒興に預けてあるが、近いうちにわしのものにする」と言うのです。

▲石山本願寺推定地 出典:kenta57 / PIXTA

そして、賤ヶ岳の戦いから山崎に帰ってくると「寧々、さあ、大坂に安土城より立派な城を作るぞ」と言って大はしゃぎでした。

柴田勝家さまと織田信孝さまを滅ぼし、滝川一益さまも浪人同様にされたあと、丹羽さまは、若狭はそのままとして西近江は秀吉に譲り、柴田勝家さまの領地だった越前一国と加賀の南部を併せて、百万石を超える領地になりました。長浜など湖北も秀吉のものに戻りました。

前田利家さまには、佐久間盛政さまの加賀北部と能登を差し上げました。織田信雄さまには、伊勢のうち滝川一益さまや信孝さまの領地だった北部が渡されました。

秀吉の家臣や親戚の者にも領地が分けられましたが、私の伯父の杉原家次は丹羽さまが北ノ庄に移られたあとの坂本城主に、義兄の浅野長政は近江瀬田城主にしてもらい、私も感謝されて鼻高々でした。

そして、池田恒興さまには信孝さまの直轄地だった岐阜城や大垣城が与えられて美濃に移られたので、大坂や兵庫など西摂津の領地は秀吉がちゃっかりもらったのです。

愛のキューピッドを務めた寧々

大坂城の築城工事は、賤ヶ岳の戦いからわずか4ヶ月後の天正12年(1584年)8月から始まりました。秀吉は、まず最初に天守閣から作り始めました。この頃の天守閣は、江戸時代になってからのような倉庫にしか使えないものでなく、住むこともできるものでしたので、まずは天守閣を建て、そこから指図するということになったのです。

現在の大阪城は、大坂夏の陣で丸焼けになったあとに、徳川秀忠さまが築かれたものでございます。大坂夏の陣でわかった弱点を克服するために、盛り土を何メートルもして、もとの地形をだいぶ変えて作られたものです。 

私たちの大坂城は、秀吉が天下人になったことを誇示するために急いで築いたものなので、自然の地形とか、石山本願寺時代の曲輪分けは、だいたいそのまま利用しました。

ですから、現在の大阪城、あるいは江戸城や名古屋城のように、本丸や西の丸、二の丸がそれぞれ広々とした空間になっているのと違って、小さい曲輪がいっぱい複雑に組み合わさっている、姫路城や熊本城のようなつくりだったわけでございます。

私たちが住んでいたのは、天守閣のまわりの一画で、そこに御殿があったのです。そこには、私たち一家だけでなく、各地の大名から預かった人質たちもいました。だいたい少年少女たちですから、私にとっては子どものようなもの。精一杯、武芸や遊びも、行儀見習いも手習いもさせてやりました。

また、男女分け隔てなくというわけではありませんが、のちの大奥のように厳しい男女別ということもありませんでしたから、惹かれ合うカップルもできてきますし、好みなどもわかりますから、私もたくさん愛のキューピッドをさせていただくことになりました。

▲「愛のキューピッド役は私の楽しみでもありました」 イラスト:ウッケツハルコ

もうひとつ、今の大坂城のように、白亜の堂々とした櫓や門、そしてきれいに切った巨石を積み上げた石垣ではございませんでした。

秀吉時代の城は、安土城などと同じように近江穴太(おうみあのう、坂本の南。景行天皇から仲哀天皇まで三代の宮が営まれたところです)の方々が、小さな自然の石を積み上げたものですし、建物は黒い漆塗りの下見板張りで、金の瓦など飾りがたくさんついておりました。

現代の皆さまがご存じのものでは、伏見城や清洲城の鉄筋コンクリートの天守閣の黒っぽい漆塗りの外観が、私たちの大坂城に近いもので、映画ロケなどでも大坂城としてよく使われております。

現在の大坂城天守閣は、昭和天皇のご即位を記念して大阪市民たちの寄付で再建されたもので、徳川時代の巨大な石垣の上に、豊臣時代の華麗なデザインや装飾を基礎にし、壁だけは徳川風に真っ白くしたもので、豊臣・徳川ごちゃまぜになっております。

ところが、このミックスジュース(余談ですが大阪名物で私も大好きです)のようなものが、日本人の好みに合ったのか、とても好評で「お城」の標準イメージになってしまいました。いわば「昭和スタイル」なのです。

それから、この大坂城には山里丸というのもございました。山里のイメージを再現したもので、ここで遊ぶことも楽しみでした。義母のなかは、自分で畑をつくって喜んでおりました。

地形も現在とは違って、大和川が堺でなく、大坂城の東側を河口にしておりました。その東は湿地帯が多くしばしば浸水しておりましたし、西も御堂筋のあたりまでは海でございましたから、大坂城がある上町台地は、海に浮かぶ半島のようなものでした。

それを、秀吉の時代からだんだんと埋め立てていって、そのかわりに運河を掘って「浪速の八百八橋」とか「東洋のベニス」という町になっていった、というわけでございます。

▲伏見桃山城 出典:adigosts / PIXTA