信孝を担ぎ上げた滝川一益の思惑

清洲会議で、織田家の家督は信忠さまのお子で3歳の三法師さまが継がれ、とくに後見はおかずに、佐和山城主の堀秀政さまがおもり役になることになりました。

三法師さまは、会議後に信孝さまが城主となられた岐阜城におられましたが、安土城も丸焼けになったわけでなく、仮の御殿が整えられ次第に、引越しされるはずでございました。ところが、堀秀政さまへの引き渡しと安土城への引越しを、信孝さまが引き延ばされたのでございます。

要するに、手元において事実上の後見人になろうとされたのです。もともと信孝さまは、母上が兄の信忠さまや信雄さまの母である吉乃さま(こういう名だったかどうかわかりませんが、よく知られているので使っております)のような、信長さまにとって特別の方というわけでなかったので(坂某という武士の娘と言われています)、信雄さまと同い年ですが同等の扱いはされておりませんでした。

しかし、勇敢で礼儀正しいので、徐々に頭角を現され、信長さまも四国攻めの司令官に抜擢されたのでございます。ただ、手勢がわずかだったので、兄の信雄さまの与力の軍団など、あちこちから借りたりしていたのですが、本能寺の変があると寄せ集め部隊なのでほとんどが逃亡してしまいました、ですから単独では明智光秀さまと対抗できず、丹羽長秀さまとともに、秀吉が中国から戻ってきたのに合流するかたちで山崎の戦いに参加されました。

▲秀吉と明智光秀が争った山崎合戦之地の石碑 出典:minack / PIXTA(ピクスタ)

ただ、それでも秀吉から総大将ということにしてもらい、光秀さまの首が小栗栖の百姓たちから届けられたのが信孝さまのところだったこともあり、これを本能寺で晒して名を上げられました。

一方の信雄さまは、軍勢を信孝さまに貸していたことも原因で、伊勢の反乱を抑えるのがやっとで、信長さまの仇討ちどころではありませんでした。ただ、山崎の戦いで明智勢が安土城からあらかた撤退したあと、城の接収に出てこられたのですが、このときに安土城は焼けてしまいました。はっきりしないのですが、信雄さまの手下が火を付けたというのがもっぱらの噂でございました。

秀吉は、もともと吉乃さまの実家である生駒家などの川並衆(当時そういう言い方はありませんでしたが、木曽川に近い地方の土豪たち)や、吉乃さまの系統とのつながりは深く、信忠さまとは懇意だったのですが、信雄さまとはあまり接点がございませんでした。

また、信孝さまともほとんど面識がなかったのですが、山崎の戦いでは信孝さまの存在が秀吉にとっても便利だったので、しばらくは協力していたのです。

しかし、信孝さまが元服したときの加冠役は柴田勝家さまですし、領地が伊勢の神戸城(鈴鹿市。読み方は「かんべ」です)でしたから、長島城を本拠にしていた滝川一益さまとも近い関係でした。

秀吉と勝家が直接対決へ

信孝さまが織田家の惣領になろうという気になったのは、柴田さまよりも滝川さまの示唆のほうが大きかったのでないかと思うのでございます。滝川さまは、近江の甲賀郡大原市場という甲賀忍者のふるさとのお生まれで、なんでも一族の内紛で国を出られ、鉄砲のことをいち早く学ばれて、信長さまに仕えられた方だと聞いておりました。

織田家代々の家臣でないのに出世したということで、秀吉のライバルだったわけですが、秀吉のように武芸より調略が得意ということでなく、大軍勢を差配するのがお得意で、武辺のことではいまひとつの秀吉のことを、滝川さまはあまり快く思っておられてなかったのです。

本能寺の変のときは、厩橋(前橋)城におられましたが、北条氏政さまの圧力によって、この城と信長さまから預かった上野国と信濃佐久郡などを放棄して、伊勢長島に逃げ帰っておられたのです。

このときに、関東や信濃の武士たちから取った人質も一緒だったのですが、木曽義昌さまに中山道を通してもらうために、人質たちを預けさせられてしまいました。木曽さまは、のちに徳川家康さまに人質を譲って、この地方を抑えるのに利用されました。

滝川さまは、なんとか濃尾へ戻ってこられたのですが、清洲での会議には参加できるような状態ではありませんでした。そして、伊勢長島に落ち着かれ、再起のために新しい領地を所望されたのですが、そんな虫のいい話は誰も聞いてくれませんでした。

そこで滝川さまは、旧知の信孝さまを担いで一旗揚げようとされ、それに柴田さまも乗ってしまわれたのでないかと思うのです。

しかし、この企てにはずいぶんと無理がございました。信孝さまは勇猛でございましたが、政治方面はあまり得意でなかったようで、差配を任された美濃でも地元の武将たちの統率もまるでできず、むしろ彼らは秀吉になびいたのです。

秀吉も、丹羽長秀さまや池田恒興さまと手を組んで、信雄さまを三法師さまの後見のような立場にすることで話がまとまりました。信孝さまと直接に対決するよりは、信雄さまの側に立つというほうが秀吉にとっても都合がよかったのです。

また、この陣営には徳川家康さまも加わられました。というのは、徳川さまは武田旧領や信濃や甲斐、上野を自分のものにしようと手を打っておられ、滝川さまが戻ってこられると困る立場だったからでございます。

そこで秀吉は、信雄さまや近江日野の城主の息子で信長さまの次女の冬姫さま(本名ではなく、よく知られている後世の呼び方)と結婚されていた蒲生氏郷さまなどと、滝川さまを戦わせる一方で、冬になり越前の勝家さまが動けなくなったのを見計らって信孝さまを攻め、三法師さまを安土に移し、信孝さまの母上や姫などを人質に取ったのです。

また、長浜城主になっていた柴田勝家さまの養子である勝豊さまを攻めて、これも従わせました。勝家さまと勝豊さまの関係があまりよくないことも知っていたので、無理せずに協力できたと秀吉からは聞きました。お市さまと楽しい新婚生活を楽しんで、十分な兵力を近江に置いておかなかったのですから、勝豊さまも家臣たちも無理して秀吉に抵抗などする気は起こらなかったのです。

これを聞いた柴田勝家さまは、さすがに焦って、二月の終わりになると深い雪をかき分けながら湖北へ進出されてきましたので、湖北の木之本付近で柴田軍と羽柴軍がにらみあうことになりました。

▲柴田勝家/北庄城跡(柴田神社) 出典:紀伊 / PIXTA

そして、三法師さまを安土にしぶしぶ引き渡した信孝さまも、4月16日には岐阜で挙兵されました。美濃国内の稲葉一鉄さまや大垣の氏家直通さまといった、秀吉に従う大名の領地へ攻撃を加えたのです。

そこで、秀吉は安土で預かっていた信孝さまの母上を非情にも磔にしたとかいう人がおりますが、それは信雄さまの意向によるもので、秀吉だけの意向で信長さまの側室だった方をそこまで粗略にはできません。