現在放送中のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。脚本を三谷幸喜氏が務め、平安末から鎌倉前期を舞台に、源平合戦と鎌倉幕府が誕生する際に繰り広げられた駆け引きを描き、近年の大河作品では1番と言っていいほどの話題を集めています。
しかし、ドラマで描かれる鎌倉時代とは異なった「陰陽師」から見た鎌倉時代があると聞くと、にわかには信じ難いですが知りたくなるのではないでしょうか。日本史についての著作を多数出版している島崎晋氏が明かす、大河ドラマがもっと楽しくなる、源平合戦、鎌倉時代の新しい視点とは!?
※本記事は、島崎晋:著『鎌倉殿と呪術 -怨霊と怪異の幕府成立史-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
気性や育った環境がかなり違っていた平氏と東国武士
東国武士あるいは鎌倉武士と聞いて、まず頭に浮かぶのは『平家物語』で語られるイメージではないでしょうか。
富士川の戦いを前にして、斎藤実盛という老武者は平氏の総大将・平維盛に呼び出され、東国武士の実力について尋ねられます。数々の修羅場を潜り抜けてきた実盛は、都育ちで戦場を知らない平氏の貴公子たちに含むところがあったのか、まるで脅すかのように、次のように語りました。
戦いに臨めば、親が討たれようと子が討たれようと、戦死する者があれば、その屍を乗り越え、戦っていきます。西国の戦いと申しますと、親が討たれれば仏事を営み、忌が明けてから攻め寄せ、子が討たれれば嘆き悲しんで、戦いません。兵糧米が尽きてしまうと、春に田をつくり、秋に収穫をしてから攻め、夏は暑い、冬は寒いと言って戦いを嫌います。東国にはまったくそのようなことはありません。
案の定、維盛をはじめ平氏の貴公子は皆、震えおののいたとあります。同じく武士でありながら、平氏と東国武士では、気性や育った環境がかなり違っていたのです。
東国武士の大半は、天慶の乱(平将門の乱)で勲功を挙げた英雄たちを祖と仰いでいました。平高望を始祖とする桓武平氏、藤原秀郷を始祖とする秀郷流藤原氏、源経基を始祖とする清和源氏の三系統で、桓武平氏のうち伊勢国に本拠地を移し、都を活動拠点にした一族が平清盛を代表とする伊勢平氏です。
関東に残った一族は枝分かれを繰り返し、のちには「坂東八平氏」と総称されます。清和源氏も枝分かれしますが、関東で勢力を築いたのは河内源氏庶流です。
桓武平氏は桓武天皇、清和源氏は清和天皇の皇子に始まります。宮廷経費削減のため、皇子に姓を与えて皇籍から臣籍に降下させる件数が増えるなか、地方官として東国に赴任したあと、任期が切れても都に戻らず、在地領主との縁組を通じて定住を選ぶ者が多く現れます。藤原秀郷の後裔も同じような状況であったため、関東の武士は軒並み右の三系統のどれかとなったのです(詐称が混ざっている可能性は否定できませんが)。
ここに名の出た「在地領主」とは開発領主の後裔です。彼らの所領は、常に他の在地領主や国司(中央から派遣された国の長官)に狙われており、法的保護が期待できなかったので、彼らはみずから武装する必要に迫られました。賜姓皇族や秀郷流藤原氏を婿や養子に迎えることは、都に伝手(つて)をつくると同時に一族の箔づけにもなります。双方の利害が一致した結果、東国武士が誕生したのでした。
東国武士は死をまったく恐れないわけではありません。彼らが命をかけるのは所領を守るか、新たな所領を得る場合に限られ、無駄死には断じて避けるべきと考えていました。背中を斬られる、名もない者や格下の者に討たれるのを恥としたのも、自分一人の問題で終わらず、子孫に汚名を負わせ、文字通り「末代までの恥」となるのを恐れたからです。
東国武士が恐れたものは無駄死に以外にもあります。病や天変地異などがそれで、目に見えず、形のないものに対しては、どんなに腕力が強く、刀や弓の扱いに優れていようとも、とうてい太刀打ちできなかったからです。
災いに対処する術は古神道や密教にもありますが、その効果は多分に主観的です。疑問視する空気が強くなる前にバージョンアップを図るか、完全なる新規導入を図る必要がありました。そこで着目されたのが、京都ではすでに実績十分の陰陽道だったのです。