陰陽道を理解することで当時の感覚に近づける
陰陽道とは、中国から伝えられた陰陽五行説に基づく占いや信仰の総称です。日本で完成され、それを操る専門の技能者が陰陽師です。
鎌倉幕府の編纂による『吾妻鏡』は、1180年4月9日から1266年7月20日まで(計10年ほどの欠落あり)の出来事を編年体で記した歴史書ですので、年代記または日記と呼んでもよいかもしれません。
この書は九条兼実の『玉葉』や藤原定家の『明月記』に代表される中央貴族の日記、『平家物語』『源平盛衰記』『承久記』に代表される軍記物語、幕府・寺社に伝存した古文書類などを史料にしたと思われます。史実として信用できない部分は多々ありますが、当時の祭祀の様子などがよくわかる史料であることは間違いありません。
関幸彦・野口実編の『吾妻鏡必携』(吉川弘文館)によれば、『吾妻鏡』には、天文・陰陽道に関する記事が800以上、陰陽師の所見が100以上あり、およそ48種の陰陽道祭が見られます。
同じく『吾妻鏡必携』では、鎌倉で行われた陰陽道の祭祀が、ごく大まかに4つにグループ化できるとして、以下のように示します。
- 病気その他身体の障害や危険を取り除き悪霊の祟(たた)りを防ぐもの(11種179例)
- 宿星の信仰を中心とし、自然の異変に対する祈祷的なもの(19種152例)
- 建築物の安全祈願のもの(11種46例)
- 祓(はらえ)を中心にしたもので神祇(じんぎ)の作法に近い部分(8種34例)
これを見れば、陰陽師の仕事内容がだいだいイメージできるのではないでしょうか。
北条氏による執権体制が確立しようとしていたその時期、『吾妻鏡』の大半は陰陽道を中心とした祭祀・儀礼関連記事で占められていました。その内容や背景を知らないままでは、当時の人びとの思考パターンや、時代の空気などを理解できるとは思えません。
陰陽道のある日常を理解することが、鎌倉幕府の誕生とそれが1世紀半近く続いた秘密に近づく第一歩となるのです。