今回のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で描かれている源義経に、これまでのイメージと違う……と感じる視聴者も多いのではないでしょうか。番組の人物紹介でも「性格は欠点ばかりだが~」と書かれていますが、義経はどんな人物だったのでしょうか? 歴史家で作家の濱田浩一郎氏に聞いてみました。

源義経は「悪人」で「KY」だったのか?

今回は、源義経は悪人だったのか? というテーマで話を進めていきます。と言うのも、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』において、俳優の菅田将暉さんが義経を演じているのですが、どう見ても悪いキャラクターに描かれているからです。

源頼朝に信頼されていた兄・義円(義経の実兄、頼朝の異母弟)を巧みに鎌倉から追い出してみたり、義円が頼朝に宛てた手紙を握りつぶしたり。そのほかにもKY(死語)な、つまり空気を読めない発言をしてみたり。どう考えても、これまで時代劇で描かれてきた、可憐な悲劇のヒーロー・義経とは異質なのです。

では、義経は本当に悪人だったのか? KYな性格だったのか? そのことについて残された史料や古典から見ていきたいと思うのです。

まず、大前提として、先程紹介した義円とのエピソードは創作です。義経が義円を陥れようとしたとする話は伝わってはいません。

義経の行動や性格を考えるうえでは、鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』が役立ちます。その1181年7月20日の項目に、義経と頼朝にまつわる次のような話が伝わっているからです。その日は、鎌倉・鶴岡若宮の社殿の上棟式でした。

御家人が居並ぶなか、頼朝は義経にある命令を下します。「大工の棟梁に与える馬を引け」と。すると、義経は「私は貴方の弟です。上の手綱を私が引くと、これに見合った下の手綱を引く身分の者がいないのではないですか」と言い、馬を引くことを渋ります。

途端に頼朝は、激怒。「馬引き役には、畠山次郎重忠がいる。次には佐貫四郎広綱がいる。どうして、見合う相手がいないなどと言うのだ。この役が身分の低い者のやる役だから、文句をつけて渋っているのか」と怒ったのです。「義経はとても恐怖し」と『吾妻鏡』にはあるので、頼朝はかなり怒ったのでしょう。

義経は、すぐに立ち上がり、二頭の馬を引いたといいます。この逸話からは、義経が「自分は、源頼朝の弟だ」という意識を強烈に持っていたことがわかります。もっと言うと、源義朝の子であり、“ほかの関東武士とは違う”というプライドや、名門意識を持っていた可能性もあります。

しかし、そうした意識は、なにも義経だけではなく、大なり小なり、ほかの武将も持っていましたから、義経だけが特殊で変わり者だったとすることはできません(合戦の際に、武士が自分の家の由来や先祖のことを語り、名乗りをあげるのが頻繁にあったことを見ても、わかるでしょう)。よって、先程の義経の発言も、それほどKYなものではなかったと思うのです。

ただ、頼朝にとってはKYな発言だった。すぐに自らの命令に従わなかったのですから。弟だからと言って、自分の命令に従わないのは許せないし、周りの御家人に示しがつかないという思いが頼朝にはあったはずです。だから頼朝は激怒した。ただし、義経もすぐに頼朝の命令に従っているのですから、自由奔放というほどのことはないでしょう。

▲「義経 八艘跳び」の像 出典:いっちゃん / PIXTA

武勇が賞賛されているのは間違いない

一方、古典『平家物語』での義経は、現代人から見たら、猪武者のように描かれています。嵐の中を船出、出陣するのは危険だとの船頭の意見を聞かず、命令に従わない者は矢で殺してしまえと怒ったり。

また、戦の際にも場合によっては退却、退くことも考えないといけませんという、(今回のドラマでは中村獅童さんが演じる)梶原景時に対し、退くことは考えはない。猪武者と言われようが、なんと言われようが、進み勝つことが気持ちいいのだと言ったり。

こうした発言は、今回のドラマの義経像に近いものだと感じます。しかし、『平家物語』における義経の発言、例えば梶原景時との論争にしても、本当ではなかったとの説もありますので、注意は必然です。また、『平家物語』は、猪武者的な義経の言動を批判的に記しているわけではありません。

とは言え、『吾妻鏡』には、梶原景時が義経を頼朝に糾弾する言葉として「義経はその独断専行によって景時に限らず、人々(関東武士ら)の恨みを買っている」とありますので、義経にはある程度は、独断専行の気質があったのかもしれません。

同時代の人々の義経評価としては、「義経は尋常一様でない勇士で、武芸・兵法に精通した人物」(『左記』=後白河院の皇子・守覚法親王の著書)や「武勇と仁義においては後代の佳名を残すものであろう。賞賛すべきである」(貴族・九条兼実の日記『玉葉』)というものがあり、とりわけ、その武勇が注目され、賞賛されています。独断専行といった批判は聞かれません。

▲義経一行が立ち寄ったとされる平泉寺白山神社 出典:shigeki.M / PIXTA

先程、『吾妻鏡』の「義経はその独断専行によって景時に限らず、人々(関東武士たち)の恨みを買っている」との文章を紹介しましたが、義経が奥州の藤原氏に討たれて、首になって戻ってきたときには、梶原景時や和田義盛らは、皆、涙を流したと言います。

ですので、多少は独断専行のところはあったかもしれませんが、根っからの嫌われ者ではなかったと思います。本当に人々から恨みを買っていたら、涙を流す人などいません。(ざまぁみろ!)で終わりです。

ということで、義経は悪人なのか、KYだったのかについて書いてきました。義経が悪人だったとする証拠はありませんし、多少、独断専行だったとしても、KYというのは言い過ぎで、関東武士からもその死を涙されたことから、完全に嫌われていたわけではなかったと思うのです。義経の理解に拙稿が少しでも役立てば幸いです。