今でも多くの日本人に愛される西郷隆盛。男らしさの象徴というイメージのある西郷どんが、お坊さんとの心中事件を起こしていることはご存知でしょうか? あまりイメージにない西郷どんの男色、その背景には薩摩における極端な女性忌避があるそう。自身を「オカマ」だと公言する山口志穂氏が、日本史の新しくて興味深い部分を語る!
西郷どんの男色の相手は正反対!?
幕末維新のヒーローであり、今でも多くの日本人に愛される男が、薩摩の西郷隆盛です。そんな西郷は、1858年に心中未遂事件を起こしています。
心中のお相手は月照というお坊さんでした。月照の容貌について、『成就院忍向履歴』には「其身短小、中肉、顔色青白く眉長し、恒に藤色衣を着す」[友松圓諦『人物叢書 月照』吉川弘文館/1961年]とありますから、西郷の容姿とは真逆と言ってもよいでしょう。男と女の心中ではありません、男同士の心中です。しかし、西郷は蘇生し、月照のみが亡くなりました。
維新が成されて6年後の1874年、月照の十七回忌に西郷は次のような漢詩を送ります。
相約して淵(ふち)に投ず 後先無し豈図(あにはか)らんや波上 再生の縁(えにし)
頭(こうべ)を回(めぐ)らせば 十有余年の夢空(むな)しく幽明を隔てて 墓前に哭(こく)す
「私たちは相約して心中しましたが、思いがけず私だけが助かってしまいました。思えばあれから10年以上経ちましたが、それはまるで夢のようです。この世とあの世を隔ててお逢いできないのはなんとも悲しく、墓前で泣き伏すのみです」というような意味となります。
幕末、倒幕の中心となったのが薩長土肥と呼ばれる、薩摩・長州・土佐・肥前の雄藩でした。
そのなかで、多くの男色研究の先達たちが共通して挙げるのが薩摩の男色です。
岩田準一は『本朝男色考』で「明治の御代は……薩摩隼人の男風が何時しか浸潤していた」と言っていますし、稲垣足穂は『少年愛の美学』で「〔男色は天保の改革以後〕、衰退の途(みち)を辿っていたところ、明治維新となって、四国九州の青年らによって彼らのお国ぶりが、京都や東京にもたらされた」と言っています。
さらに、オーストリア人民俗学者のフリードリッヒ・S・クラウスは『信仰、慣習、風習および慣習法からみた日本人の性生活』で「とくにこの愛(男色)は日本の南部の諸国では蔓延している。今でもなお、これらの国ではそれが存続している。とくに薩摩の国では、九州の他の国のように、さかんである」と言っているのです[フリートリッヒ・S・クラウス、安田一郎訳『日本人の性生活』青土社/2000年]。そこで、ここからは薩摩の男色について見ていきましょう。