2014年のクリミア半島併合はロシアの、ウクライナの安全のためだと主張したプーチン。クリミアに兵士を送り込んだ張本人が、なぜこのようなことを述べるのだろうか? そこには、ウクライナに対するロシアの秩序観が影響していた。ロシアの軍事研究の第一人者・小泉悠氏が、2022年現在のロシアによるウクライナへの侵攻にも関係してるであろう、その独特な価値観を解説する。

※本記事は、2019年6月に刊行された小泉 悠:著『「帝国」ロシアの地政学——「勢力圏」で読むユーラシア戦略』(東京堂出版:刊)より一部を抜粋編集したものです。

プーチンのブラックジョークか?

2014年3月18日の演説(クレムリンの「ゲオルギーの間」で行われた式典)で、プーチン大統領は次のような、一見すると奇妙なことを述べている。

▲式典で演説するプーチン大統領(2014年3月18日) 出典:kremlin.ru(ウィキメディア・コモンズ)

ウクライナの人民にも申し上げる。どうか理解いただきたい。我々はいかなる場合においても皆さんに害を及ぼしたり、皆さんの民族的感情を傷つけるつもりはないのです。我々は常にウクライナ国家の領土的一体性を尊重してきました。自らの政治的野心のためにウクライナの統一を犠牲にしようとする人々とは違って、です。彼らは偉大なウクライナというスローガンを掲げる風でいながら、国家を分裂させるためならなんでもやるのです。

友人たちよ、どうか聞いてください。あなたがたがロシアを恐れるように仕向け、他の地域もクリミアと同じようになるのだと叫ぶ人々を信じないでください。我々はウクライナの分裂を望みませんし、そんなものは必要ありません。クリミアはロシアの、ウクライナの、クリミア・タタールのものです。繰り返します。過去の幾世紀がそうであったように、そこに住む民の生家なのです。しかし、バンデラ主義者のものであったことはありません!

クリミアは私たちの共有財産であり、地域安定のための最重要ファクターです。そして、この戦略的なテリトリーは、強く、安定した主権の下になければなりません。今日において、それはロシアしかないのです。ロシアとウクライナの友人の皆さん、さもなければ、我々ロシア人とウクライナ人は、そう遠くない将来にクリミアを完全に失ってしまうかもしれません。このことをどうか考えて欲しいのです。

キエフはすでに、ウクライナをNATOに早期加盟させることを公言していました。それがクリミアとセヴァストーポリの将来にとって意味するところはなんでしょうか? このロシアの軍事的栄光の街にNATOの艦隊が現れるということです。ロシアの南方全域に対する脅威が生まれるということです。それも、架空の話ではなく、全く具体的なものとして。起こり得るすべてのことは、クリミア人の選択がなければ実際にすべて起こり得たのです。彼らに感謝しましょう。

▲ドニエプル川のある美しい街キーウ 出典:OlhaSolodenko / PIXTA

決着のつかない「ヴ」「ナ」問題

まさにクリミア半島を併合しようという場面で「我々は常にウクライナ国家の領土的一体性を尊重してきました」と口にするのは、一種のブラックジョークのように見えないでもない。だが、これがブラックジョークでないとすれば、その意味するところはなんだろうか。 

ロシアの秩序観からすると、ロシアにとってのウクライナは、自力で独立を全うできない「半主権国家」であり、「上位者」であるロシアの影響下にあるものと理解されよう。つまり、ウクライナはロシアの一部、またはそれに準ずる領域ということになる。したがって、プーチン大統領の演説に登場する「ウクライナ」は、その前に「ロシアの一部であるところの」という修飾語を付けて読むべきであろう。

このような観点からすれば、クリミアは確かにウクライナ人だけのものではなく、ロシア人にとっても「共有財産」であろうし、「ロシアの一部であるところのウクライナ」をNATOに加盟させかねない暫定政権は、領土的一体性を損なおうとする勢力と言えなくもない。

そしてロシアは、自らの勢力圏であるウクライナが西側によって侵食されるのを防ぐため、戦略的要地であるクリミアを急遽押さえた。これはロシアにとっても、「ロシアの一部であるところのウクライナ」にとっても、NATOから身を守るための防衛的行動である——。

このように、プーチン演説では「ウクライナはロシアの一部」であるがゆえに、「ロシアにとってよいことはウクライナにとってもよいことだ」というロジックが貫かれている。

ただ、これはあくまでもロシアの視点であって、遠い日本からそれを聞かされれば、やはりブラックジョークのように響くことは否めない。少なからぬウクライナ人にとっても、おそらくそうであったのではないだろうか。

▲地図:barks / PIXTA

ウクライナの位置付けをめぐっては、前置詞に関する論争も興味深い。ロシア語には、場所(「~で」「~に」)を意味する前置詞として「ヴ(в)」と「ナ(на)」の2つがあり、通常、国名には前者を用いる。たとえば「ロシアで」ならば「ヴ」の後の「ロシア(Россия)」が格支配を受けて「ヴ・ラシイ(в России)」といった具合だ。

一方、「ナ」は特定の限られた場所を示すために用いられることが多く(たとえば「テーブルの上に」=「ナ・スタリェー(на столе)」など)、普通は国名には使わない。ところが帝政時代以来、ロシアではウクライナの前置詞に「ナ」を用い、「ウクライナで」という場合には「ナ・ウクライーニェ(на Украине)」と呼ぶ慣わしであった。

ウクライナがロシア帝国、あるいはソ連の一部であった時代には問題にならなかったが、ソ連が崩壊してウクライナが独立国となると、この前置詞が問題となった。つまり、ウクライナは独立したのだから「ヴ」を使うべきであるという意見と、慣習に従って「ナ」のままであるべきだという論争が起きたのである。

慣用的なものなのだからそう深く考える必要はない、という意見もある。だが、2014年の危機によってウクライナの主権が政治問題化して以来、「ヴ」か「ナ」かは非常にセンシティヴな問題となっており、現在も決着はついていない。ちなみに2014年3月18日のプーチン演説では、「ウクライナ」に付された前置詞は、すべて「ナ」であった。