ロシアとウクライナの戦争が始まって2ヶ月以上になる。情勢は日々刻々と変わっているが、長期化するのではないかという見通しを立てる識者も多い。私が住むロンドンは日本よりも地理的に近く、ウクライナ出身の友人もいる。

アメリカと同盟関係にあるイギリスは、基本的にロシアとはあまり友好的な外交関係にあらず、2014年のクリミア半島併合時に続き、今回のウクライナ侵攻についてもロシアを厳しく糾弾する報道が目立つ。

さらにイギリスは、2018年に元ロシアスパイのセルゲイ・スクリパリ氏と娘への神経剤を使った殺人未遂事件の舞台ともなり、プーチン政権のやり方を公然と批判する理由に事欠かない国だ。

ごく普通の生活を送っていた若者たちが、祖国を守る戦いに参加するために帰国を決意し、目の前にある現実をソーシャルメディアで世界に向けて発信している。そこで、母国ウクライナへと戻っていた友人に詳しく話を聞いてみた。

▲写真:現地ボランティア提供

母国の危機を知りメキシコから乗り継ぎキーウヘ

ロシアの侵攻を受けた2022年2月24日以来、全てのウクライナ人の生活が大きく変わった。スヴィアトスラヴ・イヴァネンコさん(32歳)は、この戦争の前は、世界中を旅しながらも仕事をこなす“デジタルノマド”と呼ばれるミレニアル世代の青年。ベラルーシ人のオリガルヒ(新興財閥)のロシア語と英語の通訳としてリモートで働き、給料はビットコインで支払われていた。開戦後、このオリガルヒとは決別したという。

開戦時、メキシコにいたイヴァネンコさんだが、母国の危機を知り急いで航空券を予約した。メキシコシティ空港からベルリン空港へ行く飛行機だった。

ウクライナ語、ロシア語、英語を完璧に話せるが、ドイツには行ったことがなく、ドイツ語は挨拶の言葉をいくつか知っているだけだった。ドイツ語アプリをダウンロードし、コロナ項目も全てチェックし、ウクライナのパスポートと必要なビザなどを全て整え、母国を守るために未知の都市へ降り立った。

その後、すぐにベルリンのチャリティ(ボランティア)団体の車に乗せて貰うことができた。ドイツ語で軽く挨拶をしたあと、近くにいる人たちに英語で、なぜ自分がベルリンにいるのかを話した結果、幸運にも車に乗れたそうだ。ポーランドを経由し、リヴィヴを経て、ようやく生まれ故郷のキーウへ戻ることができた。

「日本は、僕の人生の旅で必ず行く必要がある国です」と言うイヴァネンコさん。現在はキーウでボランティア後方支援活動に励み、専門はペットの救済と餌の調達、その他にも、何か手が必要な人を見れば手を貸すというのが仕事だ。

▲写真:現地ボランティア提供

「前線で戦いたい」と志願兵の手続きをするが・・・

最近は、キーウの街中でもカフェやレストランがオープンし、経済活動も通常時に近づいているという。ウクライナという国は、西と東に長い国。東部ではまだまだ惨劇が続いているが、西部ではなんとか普通の生活が戻り始めているそうだ。

日本では、ウクライナのゼレンスキー大統領が降伏して亡命すれば多くの命を救えたのではないか、と言う政治家もいたようだ。

「そんな考え方をするウクライナ人はどこにもいません。なぜなら、そんなことをすれば私たちは二級市民として扱われるか、殺されるかのどちらかだとわかっているからです。ウクライナ人だということだけで、ロシア人に拷問を受けるリスクがある生活を強いられるということも、皆わかっています」

争いごとを好まないイヴァネンコさんだが、唯一やったことのあるスポーツが射撃だった。世界中を旅し、キャンプ経験もあり、サバイバル能力にも長けているという自負があった。母国を守るためには前線で戦いたいとして志願兵の手続きを行ったが、一般後方支援枠で母国のために戦うことになった。

「当然ですが、志願兵が多過ぎて軍事訓練を受けたことのない人は前線には行けません。僕はスナイパー枠で前線に行きたかったのですが、ジャベリンと呼ばれる大砲枠でも前線まで行くのは難しいようです」

世界政治学的に”西側”と呼ばれる世界から、多くの武器がウクライナへ届けられた。オリンピック競技で英語でジャベリン(Javelin) といえば“槍”だ。ロシアの戦車が攻めてきたときの解決策として、槍が有効という事実があり、アメリカ軍が開発した、この携帯ミサイルが大量にウクライナへ送られた。そして、アメリカ軍よりも先に“この槍”をウクライナに届けたのは、イギリス軍だった。

ウクライナ人たちよ、立ち上がれ。世界が期待している。

▲写真:現地ボランティア提供