ついに家康に会うことになった秀頼

▲二条城 出典:rseipic / PIXTA

慶長16年(1611年)は、秀頼が秀吉が亡くなってから初めて上洛し、二条城で徳川家康さまと会談した年でございました。

秀忠の将軍宣下のときにも上洛の打診はあったのですが、茶々の反対で沙汰やみになりました。今回は、後陽成天皇から後水尾天皇への譲位という機会に5年ぶりに上洛してきたので、家康さまから一度会いたいという強い申し出がございました。

茶々としては、豊臣が徳川の下のように見えるからというよりは、秀頼の身の安全を心配して嫌がったのです。なにしろ、前田利家の未亡人であるまつさまと、嫡男である利長とが、まつさまが江戸に人質に取られたら会えなくなっていることも見てますから、殺されなくても江戸へでも連れ去られたら大変と思ったのです。

しかし、加藤清正らが強く勧めましたし、占いなどさせたところ「吉」と出たので、しぶしぶですが承諾いたしました。もっとも、本当は大凶だったのを片桐且元が占い師を脅して改めさせたと、あとで聞きました。

大坂からは清正と私の甥の浅野幸長が同行し、福島正則は当日になって腹痛を理由に同行を中止し、万一の時には大坂城を守る体制を取りました。

秀頼は「脅威」だと察知した家康

私たちは船で伏見に向かいましたが、そこで迎えてくれた家康さまの第九男で名古屋城主の義直、第十男で駿河城主の頼宣という二人のお子たちに、清正は臣下の礼をとらせて日ごろの鬱憤を晴らしていました。

二条城での家康さまとの会談には私も同席いたしました。その席では対面して座りましたが、杯は家康さまが先に空けられました。言ってみれば、どちらが臣下かということではありませんが、官位も上である家康さまを立てたのです。

秀頼は秀忠の娘婿ですから、秀忠抜きで祖父の家康さまが会われるというのはおかしなことなのですが、秀忠は秀頼より官位が下なので、あえて避けたのかもしれません。

秀頼は、卑屈にはならないようにしながら、年長の家康さまを無理なく立てられ、まことに見事なものでした。

会談はたんたんと行われ、清正が頃合いを見計らって、茶々が大坂で待っているからと秀頼に退席を促して終わりました。

清正らは無事に会談が終わって大満足だったようですが、私には一抹の不安がありました。そして結局、この会談は完全な失敗でございました。

家康さまは「秀頼が女に囲まれて育ち、嬰児のごときと聞いていたが立派に育っているのを見て喜んだ」とか「賢き人だ。人の下知など受けまい」と仰ったそうです。

どこから見ても優れた人物だと家康さまが思われたのではありません。ただ、なんとなくカリスマ性があるのと、人の下にあって我慢する、あるいは上手にへつらいながら立ち回るようなタイプではない、ということなのです。つまり、秀頼をいかにも扱いにくい若者だと見て取られたのです。

ここでもし、秀頼がバカ殿のようだったり、巧みに家康さまを持ち上げたのであれば良かったのですが、そうではなかったのです。これで家康さまは不安になりました。

秀頼が普通の一大名のように振る舞うことは期待されなかったでしょう。ただ、徳川の客分のような立場で満足してくれればよい、ということだったと思うのです。ちょうど、古河公方と北条家とか、京極家と浅井家の関係のようなものです。

しかし、そういうことを受け入れる人物ではなさそうで、諸大名が秀頼に会ったら、さすがは天下人だと思うだろう、というので怖かったのでございます。

しかも、このとき京の民衆は、秀頼の行列を一目見ようと都大路に出てきて歓迎いたしました。こうした豊臣人気も、家康さまをますます不安にさせたのです。あとになって考えれば、「豊臣滅亡すべし」と家康さまはこのときに決意されたことでしょう。

頼宣と義直を引き連れて、無事に大坂城へ帰ってきた秀頼を見て、茶々や清正たちは安堵しました。これで豊臣家も安泰と思ったのです。

しかし、信雄さまや信包さま、長益さまら織田家の人たちは、さすがに織田家の運命を見ていますから、危ないという意識を持たれたようです。

このあと、清正は肥後に帰国しますが、船中で発病し、4月には熊本城で死んでしまいました。この報せを聞いた私の心にも不安が湧き上がりました。

▲復旧工事中の熊本城 出典:TOSHI.K / PIXTA