「日中戦争」の名を持ちながら、実際には列強の国々が中国の利権を巡って内部に介入し、その誰もが日本など眼中になかった。インテリジェンス・ヒストリー(情報史学)に詳しい山内智恵子氏が、ユ教授の「日中戦争」論をもとにインテリジェンスと外交を駆使した日中戦争の全貌を解説します。

日中戦争の本質は「日本と中国の戦い」ではなかった

マイルズ・マオチュン・ユ教授が2冊(『龍の戦争』『中国のOSS』)の本で展開した日中戦争の分析から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

第一に、日中戦争に対する、非常に興味深くユニークな捉え方です。

中国大陸を舞台とする戦いの帰趨を決したのは、日本と中国の軍事力の戦いというよりも、アメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・ソ連、そして中華民国と中国共産党のインテリジェンスや外交の戦いだったという見方です。

つまり、物理的な戦闘よりも、軍事の背後のインテリジェンスや軍事支援のほうが重要だという捉え方です。この観点から見ると、蔣介石が日本に勝った理由も中共に負けた理由も、非常に明瞭に理解できます。

蔣介石が日本に勝てたのは、国際的に連携して日本に対抗する構図を作ることができたからです。蔣介石にとって、日本を外交的に孤立させること、とりわけアメリカの支援を取り付けることが、日本に勝つためには決定的に重要でした。

1937年8月に発生した第二次上海事変は、蔣介石政権の側が日本に対して攻撃を仕掛けたものですが、蔣介石が上海の地を選んで攻勢に出たのは、上海が華北よりも軍事的に勝算があったことに加えて、上海には欧米列強の共同租界、特にアメリカの租界があったことから、もし日本が上海で軍事行動を行えば、日本に対する国際的批判や制裁が行われるようになるだろうという計算がありました(家近亮子『蔣介石の外交戦略と日中戦争』)。

▲上海バンド地区(1928年) 出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリック・ドメイン)

当時、日本国内、特に陸軍では、中国を武力で威圧すべきだとする「拡大派」と、中国との軍事的対立よりも対ソ警戒を優先すべきだとする「不拡大派」の意見が対立していましたが、第二次上海事変を機に「不拡大派」が更迭され、日本政府は積極的軍事行動によってシナ事変の早期解決を図る方針を打ち出して行きました。そして、南京や南昌など中国諸都市への空爆を行って、強い国際的批判を浴びることになります。

1941年5月、中国がアメリカの武器貸与法の対象国になったこと、次いで、1941年12月に日米が開戦したことで、蔣介石は対日不敗の国際的布陣を作ることに成功しました。

結果的に日中戦争の発端となった盧溝橋事件が発生した当時、日本の陸軍の拡大派でさえ、中国大陸での全面戦争を企図も予測もしていませんでした。日本の権益や居留民保護といった問題は、限定的軍事行動と現地の地方政権との交渉で解決する方法を基本的な対処法としていました。

▲宛平県城から出動する中国兵 出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリック・ドメイン)

『龍の戦争』に登場する日本人・藤原岩市

盧溝橋事件発生当初の日本の方針は、事態の沈静化と治安維持であり、今で言えば平和維持活動(PKO)のようなものです。ところが、第二次上海事変以降、日本は戦線を一気に拡大し、軍事的には蔣介石政権に対して優位に立ちましたが、国際世論や外交では不利になります。

そして、さらに日本の対英米開戦を以て、中国は連合国の一員となり、日中戦争は蔣介石政権を含む連合国vs日本という、世界的規模の構図になってしまったわけです。以後、日本にとって日中戦争の長期的見通しは、絶望的になったと言えます。

武器貸与法による対中支援が、はなはだ不十分だったという問題はあるのですが、そのせいで中国は日本に負けたのかといえば、全くそんなことはありません。

日本は軍事力による戦闘で蔣介石に勝とうとしていましたが、蔣介石は外交で勝つことを考え、そしてそれに成功したのです。日本からすれば、インテリジェンスと外交で中国に負けた、ということになります。

一方、日中戦争の後半には、蔣介石の国民党と中国共産党が、アメリカの支援を奪い合う構図になりました。イギリスはアジアの権益を回復・維持したいので中国の統一を望まず、日本との戦争中にも関わらず中共と国民党を互いに“いがみ合わせる工作”すら行っていましたから、外交的にも、また現実的な支援においても、最も重要だったのがアメリカです。

蔣介石にとってアメリカの支援は対日戦のためだけではなく、中共に勝つため、事実上国民政府から独立している軍閥の勢力に睨みを効かせて抑えるため、また、国民政府内部での権力維持のためにも必要でした。

そのアメリカの対中支援が、中共の工作によって大幅に無効化されてしまったために、国民党は国共内戦で最終的に敗北することになったのです。

日中戦争後半になると、孤立した日本が敗北するのは時間の問題でした。中国大陸の将来の覇権のためにアメリカを挟んで争う国民党と中共の対立の構図には、日本がアクターとして登場する余地はありませんでした。中国と戦闘を続けていたものの、日本はもはやアクターたり得なかったということです。

『龍の戦争』には、日中戦争で戦闘を指揮した日本の軍人が誰も登場せず、藤原岩市の名前だけが出てくるのですが、このことも外交や軍事支援やインテリジェンスの重要さを考えると納得がいく気がします。

イギリスが対日戦の緒戦でボロ負けしたために、インドで独立運動が活発になるなか、日本は工作員を送り込んで、1941年12月後半からインドの民族主義者と手を結びました。日本の煽動によって、インドでは独立熱が燎原の火のように広がりました。

藤原は、モーハン・シンが率いる若手インド軍将校らを説得して「インド国民軍」を編成させます。その間、民族運動の中心的団体・インド国民会議のマハトマ・ガンジーは、ただちに独立を認めるよう英国に要求し、要求を呑まなければ日本との和平交渉を始めると通告したのです。

▲ラングーンを行進するインド国民軍(1944年) 出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリックドメイン)

インドが日本に降伏するかもしれないことが、イギリスにとって重大な脅威であるのは当然ですが、蔣介石にとっても、インドを失えばビルマ・ルート回復が望めなくなるので、藤原の活動は脅威でした。

イギリスは藤原たちの動きに対抗するために、「アジア人のためのアジア」というプロパガンダを行い、1942年2月、蔣介石を「よきアジア人のリーダー」としてインドに招待したのだとユ教授は分析しています。

もっともインド旅行中に、蔣介石とイギリス側は何度も角付き合いを繰り広げて険悪さが増し、蔣介石がイギリスSOEの中国特殊部隊を追放する要因の一つになるのですが……。

日中戦争の本質は、日本と中国の軍事力の戦いではなく、外交や軍事支援やインテリジェンスを使った大国たちの戦い、「日中戦争」(Sino-Japanese War)ではなく「中国での戦い」(War in China)と言えるのかもしれません。

※本記事は、山内智恵子:著、江崎道朗:監修『インテリジェンスで読む日中戦争 -The Second Sino-Japanese War from the Perspective of Intelligence-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。