いわゆる「心霊写真」とされるものの多くは、手ぶれや多重露出など技術的なミスによって生まれることが多く、これらの多くはフィルムカメラの時代ならではの産物だった。これに対して、スマホも含めてデジタルカメラが普及すると、そうした“心霊写真”の技術的な原因は、ほぼ除去されてしまった。

同様に、現在に比べると製版・印刷技術が未熟だった時代の切手には、結果的に心霊現象が現れたかのように見える「心霊切手」がいくつかある。ヒトラーとナチスドイツは、世界の大半の国では絶対悪と認識されており、それゆえ、直接ナチスやヒトラーを賛美していなくても、“ヒトラーの亡霊”を連想させるモノはしばしば物議を醸すことになり、そのなかには切手も含まれている。

※本記事は、内藤陽介:著『本当は恐ろしい! こわい切手​』(ビジネス社:刊)より一部を抜粋編集したものです。

忌まわしき記憶が甦ってしまう“呪いの切手”

第二次大戦に敗れたドイツは、大戦前の領土のうち、オーデル・ナイセ線以東の旧ドイツ東部領土(ポメラニア、ノイマルク、シレジア、東プロイセン)をポーランドとソ連に割譲したほか、米英仏ソの4ヵ国によって分割占領された。

その後、東西冷戦の進行とともに、米軍占領地区と英軍占領地区は、円滑化のため合同してバイゾーンを形成。さらに、これにフランス軍占領地区が加わってトライゾーンを形成し、ソ連軍による占領地区との亀裂を深めていった。

西側によるトライゾーンには、1949年9月15日、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が正発足し、これに対抗して、同年10月7日、ソ連は自らの占領地域でドイツ民主共和国(東ドイツ)を成立させた。

こうした状況の下で、独仏国境地帯に位置するザールは、西ドイツの成立後もフランスの占領下に置かれ続けていた。ザールはヨーロッパ有数の炭田地域で、第一次大戦でドイツが敗れた後は、1920〜35年には国際連盟の管理下に置かれていた。このため、1933年1月にヒトラー政権が発足すると、反ナチス派の人々のなかにはザールに逃げ込む人も多かった。

しかし、1933年10月に国際連盟を脱退したドイツは、ザールの返還を要求。連盟による管理期限が終了した1935年に行われた住民投票に際しては、ドイツ政府主導で「ザールはドイツのものだ!」をスローガンとする大々的なキャンペーンが展開され、住民の90パーセントを超える支持を得て、ドイツに返還されることになった。

これは、ナチスドイツにとって領土拡張の最初の成功例として、その後のドイツの進路にも大きな影響を与えた。こうした経緯もあって、第二次大戦後、ザールは再びドイツから切り離され、フランスの占領下に置かれていたのである。

そのフランス占領下のザールで1947年に発行された切手は、“ヒトラーの亡霊が見える”として物議を醸したことがある。この切手は、戦後復興の担い手として労働者が高炉を撹拌している場面を描くもので、同図案で色違いの15ペニヒ、16ペニヒ、20ペニヒ、24ペニヒの4つの額面があった。

▲1947年、フランス占領下のザールで発行された16ペニヒ切手

この切手に描かれている左側の労働者の撹拌棒の先端と、その周辺を上下逆にすると、炎と地面の形状が顔の輪郭と目に、炎の中に入る撹拌棒の先端がチョビ髭のようにも見え、あたかもヒトラーの亡霊がこちらを見ているかのように見える。

▲16ペニヒ切手の左側の労働者の撹拌棒の先端とその周辺を上下逆にした画像

さらに、右側の労働者の両脚のあいだから見える高炉の縁の部分も上下逆にすると、やはり、ヒトラーの顔のように見える部分がある。

▲16ペニヒ切手の右側の労働者の両足の間を上下逆にした画像

先述のように、ザールを取り返したという成功体験がヒトラーに自信を与え、ナチスの膨張を招き、ひいては第二次大戦につながったという記憶が生々しい時期だっただけに、ザール切手に“ヒトラーの亡霊”が見つかると、ザールとフランスではちょっとした騒動になった。

ヒトラーは死してもなおドイツの人々を恐怖に陥れる

とはいえ、終戦後まもない物不足の時代でもあったため、“ヒトラーの亡霊”は単なる偶然として片づけられ、これらの切手が使用禁止になることはなかった。

なお、ドイツの弱体化と石炭の確保を目論んでいたフランスは、ザールの独立を画策し、住民投票を行った。しかし、投票の結果、独立派は少数にとどまり、1957年1月1日、ザールは西ドイツに復帰する。

この頃の西ドイツは、すでに戦後復興の段階を終えて、高度経済成長の時代に突入しており、人々の日常生活の表層では、戦争は過去のものとなりつつあったが、それでも、“ヒトラーの亡霊”がひょっこりと顔を出し、社会をざわつかせることも少なくなかった。

たとえば、1964年、ドイツ各地の名所を描く木版調の切手に発行されたうちの一枚、ドイツ南部のバーデン=ヴュルテンベルク州エルヴァンゲンの城門を描いた、50ペニヒ切手の中央やや左側の木の枝の一部が「帽子をかぶったヒトラーの顔に見える」として物議を醸したのは、その一例であろう。

▲1964年にドイツで発行されたエルヴァンゲンの城門の50ペニヒ切手
▲ヒトラーの顔に見えるとされた部分の拡大

もちろん、切手のデザインを担当したオットー・ローズには、切手にヒトラーの顔を紛れ込ませる意図などあろうはずはなく、単なる偶然として風評を即座に否定。彼が責任を問われることはなかったが、1967年に発行された50ペニヒ切手では、城門の構図はほぼ同じながら背景などは変更され、ヒトラーの顔に見える部分は完全に排除された。

西ドイツ郵政としても、公式発表こそないものの、やはり“ヒトラーの亡霊”は気になっていたのだろう。

▲1967年に発行された50ペニヒ切手