夏といえば怖い話。ここでは怪談話とはちょっと違う、現実にあった戦国時代の「こわい」話を紹介します。ホトトギスの例えでも有名な戦国時代を代表とする3人、と言えば知らない人はいないでしょう。大河ドラマでもおなじみ信長・秀吉・家康にまつわる「こわい」話を、歴史作家の濱田浩一郎氏に聞きました。

信長の残酷行為は当時の人々のトラウマに

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康は、戦国三英傑として、現代の人々にも人気を博しています。「この3人の中で、誰が最も残酷か?」との質問には、多くの人が「織田信長!」と答えるのではないでしょうか。

比叡山延暦寺の焼き討ち、一向一揆の弾圧……そういった信長の所業は、日本史の教科書にも特筆されていますし、現代の時代劇においても何度も描かれてきたからです。確かに信長が、多くの人々を殺めてきたのは事実です。元亀2年(1571)9月には、浅井・朝倉氏に与する比叡山延暦寺を焼き討ち。「根本中堂・山王二十一社、一堂一宇余さず焼き払われた」と信長の一代記『信長公記』(著者は信長の家臣・太田牛一)にはあります。

それだけでなく、山の下にいた老若男女「僧俗・児童・学僧・上人」を捕らえて、首を刎ねたのです。「悪僧は首を刎ねられても仕方ありませんが、私どもはお許しください」と命乞いする女性や小童までをも、信長は許さず、首を落としていったのでした。数千の死体が辺りに散乱していたと言います。

また、謀反を起こした荒木村重一族の処刑も凄惨なものでした。寺に大きな牢屋を拵え、そこに30人ほどの女子を入れ、家臣の屋敷の牢屋にも荒木一族の者を押し込めていましたが、信長は「武将の妻子を選び、磔にせよ」と命じるのです。天正7年(1579)12月13日、120人の婦女子が尼崎の近くで処刑されました。幼子は母親に抱かせたまま、引き上げられて、磔にかけ、銃殺されたのです。

また、槍や長刀で次々と刺殺されていきます。阿鼻叫喚の声が、天にも響くばかりだったと言いますし、その光景を目撃した者は、約1ヶ月は凄惨な光景が目に焼き付いていたそうです。

別の500人は、4つの家に押し込められて、焼き殺されました。周囲に積まれた草に火をつけ、その火によって焼死したのでした。見物人は余りの悲惨さに目を覆い、二度とその様を見ることはできなかったとのこと。私はこうした記述を見るたびに、時代と規模は違いますが、ナチスドイツのヒトラーによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を想起してしまいます。

▲「太平記英雄伝廿七 荒儀摂津守村重」(歌川国芳) 所蔵: 伊丹市立博物館(ウィキメディア・コモンズ)

信長を狙撃した鉄砲の名手・杉谷善住坊にも、悲劇的な最期が待ち受けていました(1573年)。近江国で捕縛された善住坊は、直立のまま土中に埋められ、首を鋸でひかれて処刑されたのです。「上下一同、これ以上の満足はなかった」(『信長公記』)と書かれていますので、特に織田方にとっては、いくら凄惨な処刑でも“大満足”だったのでしょう。

自分と血縁関係のある姉妹を呼び殺した秀吉

さて、信長の家臣・羽柴(豊臣)秀吉と言えば「太閤様」として、特に大阪では親しまれてきましたし、これまでの多くの時代劇の描かれ方からして、剽軽(ひょうきん)な「良い人」とのイメージがあるかもしれません。

しかし、彼もまた主君と同じような残酷処刑を行っているのです。天正5年(1577)に播磨国の上月城(兵庫県佐用郡佐用町)を攻撃した秀吉。「水の手」を奪ったこともあり、城内の将兵は疲弊。降伏を申し出てきたが、秀吉は拒否。垣を三重に築いたうえで、逃亡を防ぎ、攻撃を仕掛け、ついに城を落とすのです。敵兵の首は悉く刎ねられたと言いますが、それだけではありません。

城内にいた女・子ども200人余りを「播磨・美作・備前の国境」において、処刑したのです。子どもは串刺し、女性は磔という凄惨な方法によって。非戦闘員まで残酷な方法で処刑するということは、そう多くはありません。敵対する毛利方への“見せしめ”の意味もあったのでしょうが、言葉がありません。

▲上月城址 出典:alpha7000 / PIXTA

また、関白になってからの秀吉は、自らの血縁にある者を探し出して殺したりもしたようです。尾張国に住む貧しい農民の姉妹が、自らの血縁にあると知った秀吉は「それ相応の待遇をしよう」と言い、強引に彼女らを都に呼びつけます。

彼女たちは、天下人からの誘いに喜んだのでしょう、幾人かの身内を連れて京都に上っていく。ところが、 その女性たちは京都に着くやいなや、すぐに捕縛されて、斬首されてしまったのです(ルイス・フロイス『日本史』)。秀吉は自分の出自が貧しく「賤しい」ことを打ち消そうとしたとも言われますが、こうした話の数々を見ていくと、秀吉もまた残忍な人物だったことがわかります。