イントロダクション

江戸時代の博徒(ばくと)以来、ゆうに200年を越える日本のヤクザの歴史において、最大最強の組織とうたわれた武闘派集団――。それが、本邦最初にして最後の特定危険指定暴力団と称された、富拳(とみけん)こと富井拳人(とみいけんと)が率いる富拳一家である。

元はといえば、北九州のローカルヤクザの一つに過ぎなかったこの組を、わずか10年あまりで世界屈指の一大組織に育て上げ、並み居る有力親分衆を押しのけ日本ヤクザの頂点へ、そして世界のヤクザのトップにまで上り詰めた伝説の侠客(きょうかく)・富井拳人であるが、表舞台に現れることがほとんどないため、彼がアメリカ生まれのいわゆる「青い目のガイジン」であったという事実を知る者は少ない。

本名トーマス・アーサー・ケント、通称トミー・ケント略して「トミケン」が、いかにして裸一貫からこの日本に根を下ろし、いわゆる「切った張った」の血なまぐさい抗争から脱却し、メタバースやNFTなどのITを駆使した〈Super Intelligent Criminal〉によって自らの一大帝国を築き上げたのか――。

本作品はアメリカ時代の彼の生い立ちから、日本に渡ってからの下積み時代、そして、ヤクザとして栄華を極めた黄金期、さらには世界に君臨する現在に至るまでの道のりの前半部分に焦点を当て、トミー本人の口から直接語られた内容を可能な限り忠実に記録したものである。

そして、この壮大なストーリーの背景には、我々の想像を越えた、とてつもない秘密が隠されているのだ。

家族のぬくもりが一切ないドツボの少年時代

俺の名前はトーマス・アーサー・ケント。

トミーは、ガキの頃からのニックネームってヤツだ。

「戦争の世紀」と呼ばれた20世紀が、いよいよ終盤に差しかかろうという頃、アメリカ合衆国のほぼ真ん中に位置するネブラスカ州の、そのまた真ん中あたりの名もない片田舎で俺は生まれた。

アメリカの中心と言えば聞こえはいいが、別名「Cornhusker State」、つまり「トウモロコシの皮剥ぎ屋」と言われるネブラスカのなかでも田舎扱いされる土地だけに、俺が生まれた町も、カルチャーや最新流行なんてものからは程遠い、見渡す限りトウモロコシ畑しかない、「レッドネック」と呼ばれる白人の貧しい労働者階級が住民の大半を占める寂(さび)れきった町だった。

たいていのヤクザの生い立ちがそうであるように、俺の少年時代もご多分に漏れずの、ひと言でいえばドツボってヤツで、まさに不幸を絵に描いたような暮らしぶりだった。

俺が6歳のとき、自動車修理工だった親父が女を作って家を出て行った。

残されたのは、親父に殴られいつも体のどこかに青アザを作っていたオフクロと、それぞれ3つ年が離れた姉貴と妹。

雑貨屋のレジ係と、長距離トラック相手のダイナーのウエイトレスを掛け持ちしていたオフクロのおかげで、餓え死にだけは避けられたが、そこには一家団らんだとか家庭のぬくもりなんてものは、一切なかった。まあオフクロとなると、たまの休みの日となるとタガがはずれたように町外れのバーに出かけ、そこで拾ってきた薄汚(うすぎたね)え中年のオヤジどもを家に引っ張り込んでは、よろしくやってたもんだ。

そんな家で育った俺の願いはたった1つ。とにかくこの、しけたクソみたいな町から1日でも早く飛び出して、ここではないどこか別の場所で新しい生活を始めることだった。だが、そんなささやかな俺の夢を先に実現したのは姉のバーバラだった。

隣り町で年に一度開かれるフェスティバルで出会ったとかいう、カンザスシティ出身の頭のいかれたミュージシャンの子を孕(はら)んで、16歳の誕生日を待たずして家を飛び出していったきり、現在に至るまで消息不明。もしかしたら、そのへんの畑に埋められトウモロコシの養分になってしまったか、あるいはネバダあたりの砂漠の砂の下で人知れず眠ってるのかもしれない……なんて話は、俺が生まれた町じゃ掃いて捨てるほど転がってる。いまさらそんな話を聞いてもあんたらは面白くないだろうが、まあ聞いてくれ。

ボッチだった俺と親友ヒューイとの出会い

俺みたいな劣悪な家庭環境で育った子どもたちの多くは、いわゆる悪の道へ足を踏み入れるというのが通り相場だ。喧嘩に明け暮れたりとか、クスリや酒に手を出したり、女の尻を追っかけ回したり、盗んだクルマで暴走族の真似ごとをしたりとか……ところが俺はまったくそういうものとは縁がなかった。断っとくが、興味がなかったわけじゃない。正味な話、やりたくてもできなかったんだ。

その原因は俺の性格とルックスにあった。いまの俺からはちょっと想像するのが難しいかもしれないが、あの頃の俺は引っ込み思案の、いまで言う「陰キャ」で、見た目も全然イケてない典型的なオタクタイプのひ弱なガキだった。

ハイスクールに通うようになっても、女の子たちからはもちろん、男子生徒たちからもほとんど相手にされなかった。あんたらの言う「スクールカースト」で言えば、最底辺層のそのまた下をウロウロしているヤツ、そんな感じだった。

かといって家に帰ったところで、近所に友だちもいなかったし、妹は俺が彼女のバービー人形のパンティの中に爆竹を仕掛けたのが発覚して以来(爆破は未遂に終わった)、俺のことをゴミを見るような目で見て、ろくに口をきこうともしない。まあ、完全なボッチ、孤立状態だったわけだが、人間には自分の「居場所」ってものが必要だ。

しかし、身の置き所も行き場もなく、これといってやりたいこともなく、クソつまらない日々をただ悶々(もんもん)と過ごしていた俺を救ってくれたのが、同級生のヒューイ・ジョンストンだった。

ヒューイってヤツは勉強はできたが、まるでいきなり巣穴の奥から引っ張り出されたウッドチャックの子どもみたいにいつもおどおどしていて、けっして他人と目を合わせようとせず、ましてや自分から人に話しかけるようなタイプの人間じゃなかった。だが、どういう風の吹き回しか、ある日の放課後、帰り支度をしていた俺に、おそるおそるといった調子で話しかけてきた。

「あの……き、君、トミーだよね」

「ああ、そうだけど……」

「ぼ、僕はヒューイ。よ、よろしく」

「よろしく」

ヒューイは、ぎくしゃくとした手つきで俺の差し出した手を握り返すと、ある提案を持ちかけてきた。

じつはいま、学校の課外活動でコンピュータクラブなるものを立ち上げようとしているのだが、設立の認可に必要な人数が足りないので入部してもらえないだろうか――。要するにアタマ数合わせってヤツで、別に俺じゃなくてもかまわなかったのだが、いちばん暇そうで断りそうもない俺に白羽の矢が立ったってわけだ。

いまでこそ、コンピュータ(パソコン)のない生活など考えられない世の中だが、その当時はそこが田舎だったこともあり、ほとんどの人間がインターネットはおろか、コンピュータの端末にさえ触れたことがないのが当たり前だった。

俺も正直、コンピュータなんかに興味はなかった。だが、コンピュータをマスターすれば、自分でオリジナルのニンテンドー(日本で言うファミコンだ)のビデオゲームみたいなもんが作れるようになるというヒューイの言葉で、がぜんやる気になった。

とにかくほかにやることがないのをいいことに、授業がないときは部室に行ってひたすらパソコンをいじっていた。学校が休みの日でも校舎に忍び込み、朝から晩まで飽きることなく解説書とモニターと代わる代わるにらめっこしながらキーボードを叩き続けたもんだった。

忘れられないのは、初めて、リボルバーの弾の数を設定して死亡確率を変えられる「ロシアンルーレット」のゲームを完成させたときだ。俺の中ではいまでも最高の思い出になっている。

そうやって1年365日、アホみたいにひたすらキーボードとモニターに向かっているうちに、俺はクラブの誰よりもコンピュータに詳しくなっていた。もともと数字には強いほうだったので、ちょっとした銀行の決済システムのプログラムくらいは書けるようにまでなっていた。

この特技が、あとになってどれだけ俺を助けてくれたことか……。俺が自分の才能に目覚めるきっかけを与えてくれたヒューイには、ほんとに感謝してもしきれないくらいだ。

コンピュータにのめり込めばのめり込むほど、俺はいつでも好きなときに自由に使える自分のマシンが欲しくなった。そのためには金が必要だ。だったら誰かのためにプログラムを書いて金を得るのが手っ取り早い。普通はそう思うだろうが、当時の俺には自分を売り込む営業力ってものがなかった。要するに自分のスキルを金に変えるノウハウがなかったってわけだ。