今年7月、彼は奈良県での演説中に銃撃され命を落としてしまった安倍晋三元首相。その父親が“政界のプリンス”と呼ばれた安倍晋太郎。ふたりとも、人々に親しまれ、政治家としては、堂々とした外交を行い、その辣腕ぶりを発揮していました。
この親子は、どのような幼少期を送ってきたのでしょうか。そして、そこから見えてくる政治家としての資質とは?『歴代総理の通信簿』『日本の上流階級』『江戸300藩最後の藩主』などの執筆で知られる八幡和郎氏が、政界の名門・安倍家のルーツを辿ります。
※本記事は、八幡和郎:著『安倍さんはなぜリベラルに憎まれたのか - 地球儀を俯瞰した世界最高の政治家 -』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
特攻隊として出陣するはずだった安倍晋太郎
安倍家は、現在は長門市に合併された大津郡日置村出身の名門で、大地主であり醤油醸造業を営んでいました。その先祖は古代蝦夷(えみし)の血を引くともいわれる東北の名族安倍氏の流れだと称しています。
前九年の役で安倍頼時は滅ぼされ、子の宗任が伊予守となった源頼義とともに西国に移り広がりました。
安倍寛は東京大学法学部卒業後、日置村長、山口県議会議員を経て、1937年に代議士となり、1942年の翼賛選挙では非推薦で再選。その選挙区でのライバルが久原房之助。岸信介と組んで満州を支配した鮎川義介の義兄です。安倍寛はこの久原を「金権政治家」と厳しく批判して頭角を現したのです。
しかし、若いころから脊椎カリエスと肺結核を患うなど健康に恵まれず、終戦直後に50歳の若さで死にました。「大津聖人」「今松陰」「昭和の吉田松陰」と讃えられた、リベラルな政治家でした。
晋太郎は寛と南部藩出身の軍医・本堂恒次郎(夫人は大島義昌陸軍大将の娘)の娘の間に東京で生まれましたが、生後間もなく両親は離婚。
昭和19(1944)年9月に第六高等学校(岡山市)を繰り上げ卒業し、東京帝国大学法学部に進学しますが、大津市皇子山の海軍滋賀航空隊に予備学生として入隊させられ、特攻隊として出陣するはずでした(大津の基地には竹下登もいたはずです)。
安倍さんが首相時代にサミットに出席したとき、トランプ大統領から他の首脳に、「シンゾーの親父は神風特攻隊にいたそうだ。そんなグレートな父親の子なんだ」と紹介されて、どう反応していいか、一瞬戸惑ったと本人から聞いたことがあります。
日本のいわゆるリベラルな人から見れば特攻隊は非常にネガティブなイメージなのでしょうが、世界標準としては、少なくとも隊員たちは畏敬されていることがわかるエピソードです。相手にとって痛くも痒くもない「集団自決」とは別次元です。
毎日新聞記者となり、やがて、岸信介の長女である洋子と結婚し、外相秘書官、ついで総理秘書官となりました。1958年の総選挙では岸・佐藤の反対を押しきって立候補し当選しました。三期目の総選挙のときに不覚をとって落選しましたが、福田内閣では官房長官を務め、やがて、もともと岸派だった当時の福田派を「大政奉還」される形で引き継ぎ、安倍派を結成しました。
娘婿の総理就任を熱望していた岸信介が死んだ1987年の暮れ、晋太郎は中曽根退陣のあと長州7人目の総理実現かと思われました。しかし、中曽根は竹下を選びました。その後、リクルート事件で名前が取りざたされ、竹下後継も逃しました。訪ソするなどして権力奪取に執念をみせましたが、1991年に膵臓癌で死にました。
なお、母が再婚して産んだ異父弟が、みずほホールディングス会長だった西村正雄で、晋太郎は長じた後に出会い、交流していました。
新聞記者らしく官僚の話などを理解する能力にも優れ、志もありましたが、その反面、人が良すぎるとか、政策についてもやや受け身で、自ら勉強して構築していくという点においてはやや物足りなさがありました。
なにか立派なことを考えて実行してくれそうなオーラがあるのですが、派閥の議員が、「うちの親父は、黙っていても、そう見てもらえるのだから得している」などということもありました。
安倍晋太郎と晋三の似ているところと似ていないところ
安倍晋太郎と晋三の父子は、身長が高く、堂々としていることでは共通しています。晋太郎は、鷹揚で包容力があり、いかにも床の間において座りのよい人物でした。私は通産大臣としての任期中、フランスに留学していたので、それほど接触する機会はありませんでした。ランブイエでの三極通商会談と、先に紹介したベルサイユでのサミットのときにお目にかかっただけでした。
ランブイエではEUとアメリカの通商代表と、市内観光に出かけたが、自然と3人のなかで中心人物は自分だという雰囲気を醸し出していました。
大臣としての評判は良かったのですが、退任したのち、サミットに通産大臣を出席させたいと助力を依頼しました。席は首相、外相、蔵相の分しかないのですが、しばしば、席を譲ってもらって、時間限定で通産相も出席していたのです。
「通産大臣時代は、良い思い出ばかりだが、そのなかで、君たちの言う通りベルサイユ・サミットに出席した。渡辺美智雄君(蔵相)に、頭を下げて頼んでしばらくだけ席を譲ってもらったが、あれは、数少ない愉快でない思い出だった。今回もまた、通産大臣に同じ思いはさせたくない」と言ったといいます。
ともかく、人の悪口を言わない大人でしたが、それだけに、ぼそっという言葉には重みがありました。
それに比べると、若いころの安倍さんは、行儀は良くて愛想はいいのだが、甘えたところがあったといいます。父親の晋太郎は、子どもに対しても厳しくしつけるというタイプでないし、母親からは溺愛されていたから当然です。
おまけに、小学生から大学まで成蹊でエスカレーターでしたから、受験勉強のつらさも知りません。南カリフォルニア大学に留学しましたが、学士号をとるといったものではなく、遊学でした。神戸製鋼所に就職したが、まわりも、腰掛けだと思っているから、同僚との難しい人間関係に悩むような環境ではありませんでした。
だから、外相秘書官になったときは、父親のベテラン秘書などから厳しく鍛えられたという話を聞いています。
一方、当時から、なんともいえない憎めない愛嬌があって、それほど上手ではないが宴会芸でものまねをしたり、そのあたりは、父親と違うタイプで人に愛されました。
子どものときから、安倍さんは痩せて長身でした。総理になってからですが、「巨人、大鵬、卵焼き」といわれた少年時代について、「私はアンチ派なので……。好きだったのは卵焼きだけ。大鵬に立ち向かった明武谷という力士(189センチもあって吊り相撲が得意。「人間起重機」といわれた)が好きだった。背が高くて細かった。私もやせっぽちだったので」と言っています。