2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』。第3回「三河平定戦」では、故郷の岡崎に戻った元康のところに、松嶋菜々子さん演じる生き別れとなっていた母・於大の方が訪れ、今川との関係を断って織田に味方するように説得するシーンがありました。

妻子が駿河にいる元康、そのときは拒否するも家臣たちの思いを知るなどして苦悩する様子が印象的でしたが、史実ではどのように記録されているのかを歴史家の濱田浩一郎氏が紹介します。

※本記事は、濱田浩一郎​:著『家康クライシス -天下人の危機回避術-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。 

桶狭間の戦いでも家康を救った水野信元

永禄3年(1560)5月、桶狭間の戦いにより、今川義元は尾張の織田信長に討たれた。松平元康(家康)は、主君・義元戦死の報をどのように受け入れたのだろうか?

『三河物語』から見てみよう。義元が戦で死んだことは、大高城(名古屋市緑区)にいる元康のもとにも入ってきた。元康の周りにいた家臣たちは「すぐに、ここを引き払ったほうが良いでしょう」とアドバイスしたという。

ところが、元康は「義元様が戦死されたとしても、まだどこからも確実な報は入っていない。城を開けて退いた後で義元様の戦死が嘘であったならば、再び、義元様に顔向けできようか。また、人の笑い話の種になるであろう。そうなったならば生きていても仕方がない。よって、確実な情報が入るまでは絶対に退却はしない」と言明する。

家康の性格を表現した有名な句「なかぬなら鳴くまで待よ郭公(ほととぎす)」〔江戸時代後期に平戸藩主・松浦静山が記した随筆集『甲子夜話(かっしやわ)』に記載〕を彷彿とさせるような慎重さである。

そうしたところに、元康の外伯父・水野信元(家康の母・於大の方の異母兄)の使者・浅井道忠がやって来て「義元は戦死した。明日にも信長の軍勢がここに押し寄せよう。今夜のうちに用意して、早く退却されよ」と伝達するのだ。

水野氏は織田方であったが、於大の方との縁により、敵である元康に退却するように知らせてやったのだろう。慎重な元康も義元戦死を信じ、大高城から退く。元康らが向かったのは岡崎であった。

岡崎城には、まだ今川の将兵が残っていた。彼らは、岡崎城を元康に引き渡して退却したいと考えていたようだが、『三河物語』によると、元康は「今川氏真(義元の後継者)に義理をたてて、辞退して」なかなか引き受けなかったという。元康らは松平家の菩提寺・大樹寺(岡崎市)に入っていた。

▲大樹寺総門から望む岡崎城 写真:マッケンゴー / PIXTA

すると程なくして、岡崎城の今川勢は城を開け放ち退却していく。城は無人となったので「捨て城ならば拾おう」と、元康はついに父祖の城・岡崎城に入るのである。

松平家臣たちは、当然、大喜び。「獅子猿のような奴ら(今川方)に腰を低くし、這いつくばってきたのも、一度は主君をこの城にお入れしたいがため。御主君(元康)は6歳のとき、この城を出られ、19歳にして城に入られた。めでたいことよ」(『三河物語』)と言い、喜びを分かち合ったようだ。

今川より妻子より…家康が選んだのは?

『三河物語』は、この話の直後に「そこで駿河と手を切り」と書いてあるが、事はそう単純ではない。

桶狭間の合戦後、今川方が劣勢となり、織田が勢い付いたのは事実である。尾張の大高城や沓懸城からは今川方は撤退、織田方がこれを収めた。その一方で、鳴海城を守る岡部元信のようにすぐには退かず、織田軍と戦をする者もいた。一戦交えて降伏し、城を明け渡すのだが、岡部は信長と交渉し、今川義元の首を貰い受けたうえで、駿河に帰っている。

岡部のこの功績を『三河物語』は「立派」「武芸といい、侍の義理といい、譜代の主君への奉公といい、我が国においてはかつてなかった」と幾分、大仰に称賛する。

さて、尾張だけでなく、三河国からも今川方は退却していった。そのため、元康による西三河の制圧は順調に進行する。これは、元康がすぐ今川と手を切り、織田と結んだという単純なものではない。元康は、刈谷(刈谷市)・小河(愛知県東浦町)など、水野信元(織田方。元康の外伯父)の拠点も攻撃しているからだ。元康は更に挙母・梅ヶ坪(豊田市)など尾張と三河の国境付近の城を攻めている。

『三河物語』は、その様子を「あるときは挙母の城へ押しよせ、多くを殺す。あるときは梅ヶ坪の城へ戦いをしかけ町を打ち壊す」と記す。簡潔な記述だが、それがまた戦というものの本質を映し出しているように思う。永禄三年中は、元康は未だ今川方として、織田と戦っていたといって良いだろう。

変化が見られるのは永禄4年(1561)に入ってからだ。この年の4月頃には、今川氏真をして「岡崎逆心」(鈴木重時宛て、今川氏真の書状)と言わせるような、元康の叛逆(はんぎゃく)が露わになってくるのである。

永禄3年5月から、永禄4年4月まで、1年に近い年月があるのに、元康は一度も駿府に行った形跡がない。駿府には、元康の邸もあり、なにより妻子(築山殿と信康)がいたにもかかわらず。それをもって、永禄3年下半期の段階で、元康は心情的には今川を見限っていたと言えるかもしれない。

この頃の元康は「織田につくとか、今川を裏切る」とかいうよりも、西三河を一刻も早く平定して、自らの地盤固めをしたかったはずだ。そして、永禄4年2月には、敵対していた織田信長と和睦する。この和睦には、刈谷の水野信元の仲介があったとされる。

通説では、翌年(1562)正月、元康は清洲城の信長のもとに赴き、盟約を結んだとされるが、『信長公記』や『三河物語』にはそのことが記されていない。重要な会見なので、会見が実在したならば記載するであろう。よって永禄五年正月、元康が清洲を訪問しての「清洲同盟」はなかったはずだ。

その頃には、今川氏との抗争が激化しており、岡崎城を離れることはとてもできなかったということも、「清洲同盟」非実在説を補強するものである。信長と和睦した後、永禄四年四月に元康は東三河への侵攻を開始する。これが軍事的に見て、松平元康の今川に対する裏切りであり、今川氏真が「岡崎逆心」と評したような事態の現出である。

元康は、西三河を素早く平定し、続いて東三河も平定したいがために信長と結んだのだろう。また、信長は美濃・斎藤氏への攻勢を強めたいと考えていたので、元康と和睦した。両者の思惑は合致したのだ。徳川家康と織田信長――二人の同盟関係は、信長が本能寺で倒れる天正10年(1582)まで続くことになる。

▲家康と信長の同盟は長く続くことになる イラスト:稲村毛玉