「これなに?」が好奇心のスイッチをオンにする

ではもうひとつ、例をみてみましょう。

保護者「……(おりがみを置いておく)」
子ども「これなに?」
保護者「おりがみだよ」
子ども「……(もうおりがみをさわっている)」
保護者「……(1枚とって三角に折る)」
子ども「なに?」
保護者「さんかくだよ」
子ども「……(無作為に折り始める)」
保護者「それなに?」
子ども「……さんかく」
保護者「なるほど~」

先ほどの例だと、「お話ししよう」と声をかけましたが、今回は保護者がおりがみを置いただけで、「問い」が生まれました。

おりがみは、絵を描くこともできるし、並べることもできるし、ハサミで切ることもできれば、折って遊ぶこともできますね(まるめて投げることだって!)。今回の例では、保護者が問い詰めるのではなく、おりがみを置きました。そんな保護者に、子どもが問いを投げかけています。

子どもが投げかけた「これなに?」という質問は、本当に「物体の名称」を聞いているのでしょうか。これがおりがみだ、ということはもう百も承知の子どもかもしれませんよね。

それでも「これなに?」とあえて質問したなら、そこには文字通りの意味そのものを超えた問いが含まれている可能性があるでしょう。つまり「これは、触ってもいいのかな?」「これは、どうしてここにあるのかな?」そんな好奇心が子どもなりの言葉遣いで「これなに?」という表現としてあらわれているように感じ取れるやりとりです。

遊びたい! という好奇心のスイッチが言葉がけでなく、「おりがみが置いてある環境」をつくることでオンになっています。

忙しい時は「哲学メガネ」をかけて切り替える

さらに素晴らしいのは、子どもが折った無造作なおりがみを「さんかく」として認めるということではないでしょうか。保護者の考える「さんかく」以外は、さんかくではないとしたら、きっと「さんかくっていうのは、こうやって折るんだよ」と教えたくなるでしょう。

でも、もし子どもがしたかったことが、正しいさんかくを折ることではなく、保護者と同じことにチャレンジすることだったとしたらどうでしょうか。

「……さんかく」という子どもの言葉のためらいに、保護者のさんかくとちがうことはわかっているけど、これもさんかくなんだよ、という気持ちがあふれているように感じられます。

保護者は自分自身が折ったさんかくとは違うものを、さんかくだと主張する小さな哲学者の考え方を「なるほど~」と受け止めています。だって、保護者の折ったさんかくを見た子どもが「さんかく」という言葉は、「紙を手でまげることだ」と思ったのだとしたら、あなたの想像している「さんかく」は子どもが理解している「さんかく」と違うのです。

この例では、保護者は、子どもの言葉のままに、「さんかく」なのかぁ、と受け止めています。

親子だけで「こども哲学」をするということの始まりは、遊びそのもの、暮らしそのものです。いつもの当たり前を、哲学というフィルターを通して見直すだけで、こんなにも豊かなやりとりだったのか、と気がつくきっかけになるのが、親子で楽しむメリットだと私なりに感じています。

日々忙しく過ごしている保護者の前には、哲学の種がゴロゴロ転がっています。でも、それをひとつひとつ拾い上げていたら夕食の準備もできないし、洗濯物もたためません。

ときどき、「哲学メガネ」をかけてみることで、子どもの表現の裏側にある豊かな表現に思いをはせられたら、それが「こども哲学」と名前をつけなくても、素晴らしいことなのではないかと思います。