北朝鮮には海外で破壊工作を実行する国家機関として「偵察総局」と「国家保衛省」がある。このうち国家保衛省は、もともと金日成の時代から、独裁者の権力維持のための最重要の中枢組織で、現在のトップは李昌太(リ・チャンデ)だが、彼はいつまでそのポジションにいられるのだろうか。北朝鮮の取材歴もある軍事ジャーナリスト・黒井文太郎氏が、北朝鮮の国家機関のトップの悲惨な末路を語る。
※本記事は、『工作・謀略の国際政治 -世界の情報機関とインテリジェンス戦-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
破壊工作の実行機関幹部の悲惨な運命
北朝鮮では個人独裁を維持するために、秘密警察機関が国内を徹底した恐怖支配で縛り付けている。独裁体制の維持に危険と判断すれば、国内の人間は党や軍の高官だろうと即座に粛清される。国外でもその手を緩めることはない。
その典型例が、2017年2月に起きたマレーシアでの金正男(キム・ジョンナム)暗殺だ。この犯人について、韓国の情報機関・国家情報院は、当初「北朝鮮軍の工作機関である偵察総局の仕業」との見解だったが、その後の捜査によって、同月27日に「偵察総局ではなく、秘密警察である国家保衛省が実行した。それに北朝鮮外務省が協力している」との見解を公表した。その後の情報をみても、この見立てで間違いはあるまい。
北朝鮮には、海外でこうした破壊工作を実行する国家機関が2系統ある。前述した軍の「偵察総局」と、現在は内閣の「省」ということになっている「国家保衛省」である。
このうち国家保衛省は、もともと金日成の時代から、独裁者の権力維持のために最重要の中枢組織だった。当初は、1973年に金日成直属の秘密警察として「国家政治保衛部」として発足。部長は金炳夏(キム ・ビョンハ)で、金日成体制の恐怖支配確立を主導したが、彼は1982年に処刑された。その後、国家保衛部と改編され、部長には李鎮洙(イ・ジンス)が就任したが、実際には金正日が直轄した。
李鎮洙は1987年に視察先で変死(ガス中毒死とみられる)するが、それ以降、金正日の直轄下で部長ポストは空席とされ、歴代の第1副部長が実務を取り仕切った。当初、その責任者となったのは金英龍(キム・ヨンファ)・第1副部長だった。
国家保衛部は1993年に国家安全保衛部に改編されるが、1998年、内部で大粛清が行われる。この時、責任者だった金英龍・第1副部長は、粛正を悟って服毒自殺している。
その後、金正日政権終盤になって、同部の実務を担当した責任者は、禹東測(ウ・ドンチュク)・第1副部長だった。2011年末に金正日が死去した際、霊柩車に付き従った8人の幹部が金正恩体制の当初の後見人であり、そのうち4人が軍・秘密警察幹部で、そのなかの一人が禹東測だった。
しかし、その禹東測は早くも2012年4月に失脚した。処刑は確認されていないが、その後の消息は一切不明である。
金元弘(キム・ウォンホン)は、この禹東測失脚を受けて国家安全保衛部のトップに就任した。それも1987年以来、空席だった同部長としての就任だった。それだけ厚遇されたといえる。なお、国家安全保衛部時代の幹部の粛正では、もう一人有力な幹部の例を紹介しておこう。
2011年に処刑された柳京(リュギョン)・副部長である。彼は2001年に日本と拉致問題・国交回復問題を秘密交渉した「ミスターX」とみられる幹部で、それだけ金正日が信頼していた人物だったが、金正日の晩年、収賄の疑いで粛正の対象になったのである。
このように、国家保衛省の歴代幹部の末路は悲惨である。それでも、そのポストに任命されれば、自らの粛正を回避するために、ひたすら金正恩に忠誠を尽くすしかない。忠誠を尽くす唯一の方法は、ひたすら懸命に不穏分子を狩り出すことだ。
しかし、その仕事に邁進すれば、自ずと裏の権力が集まってくる。そうなれば独裁者の猜疑心を生み、結局は粛正の対象になる。どちらに転んでも悲惨な運命といえよう。
金正恩による恐怖の粛清・支配システム
2017年1月の金元弘失脚は、党の組織指導部が主導した。国家保衛省は金正恩に直結する組織だが、その指導権・監督権を、金正恩は組織指導部に与えている。しかし、国家保衛省が党組織指導部の傘下にある組織かというと、そうとも言えない。
北朝鮮の政治体制は、制度上の建前とは違い、実際には金正恩がトップで、それ以外はすべて独裁体制の歯車であり、それぞれの立場の強さはひとえに金正恩の考え次第である。現在の金正恩体制で、体制内の監視機構として大きな権限を与えられているのは、軍の総政治局、党の組織指導部、そして国家保衛省である。
独裁政権にとって、どこかの組織が突出して権力を握ることは危険である。そのため、裏の権力を握る組織同士を互いに監視させ、ひとつの組織に権限が集中しないようにするわけだ。
総政治局は、軍を監視する。独裁体制にとって最も警戒されるのは、軍のクーデターであり、そうした芽を摘むために総政治局には絶大な権限が与えられている。国家保衛省は不穏分子を実際に摘発・粛正する実働部隊である。
その権限はやはり絶大なもので、金正恩の命令があれば、軍や党のトップクラスであっても粛正することになる。そして、国家保衛省を監督する組織として、金正恩は党の組織指導部を充てている。
ただ、いずれにせよ国家保衛省は、外務省や偵察総局などと比べても圧倒的に格上であり、恐れられている存在である。こうした国家保衛省による脱北者たちに対する暗殺作戦は、おそらく今後も続くものと思われる。