2023年6月24日に起こった「プリゴジンの乱」は当日のうちに終息したが、2か月後の8月、プリゴジンの乗った自家用ジェット機は空中で爆発、墜落した。これをプーチン政権による処刑とする見方が強い。プリゴジンはなぜこのような行動を起こしたのか? モスクワを拠点にロシア各地の取材経験もある軍事ジャーナリスト・黒井文太郎氏が解説する。

※本記事は、『工作・謀略の国際政治 -世界の情報機関とインテリジェンス戦-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

プリゴジンが発したプーチンへの侮辱

2023年6月10日、ロシア国防省はワグネルを含めた民間軍事会社とその兵員に対し、「7月1日までに国防省と直接契約」することを求めると発表した。それまでのワグネルは国防省と協力し、国防省から資金および武器・弾薬を受領してはいたが、指揮系統は国防省のラインから独立していた。

つまり、プリゴジンの私兵のようなものだったのが、今後は国防省に正式に組み込まれることになった。それはワグネルからプリゴジンを排除することを意味した。プリゴジンからすれば、自分が育ててきたワグネルを国防省に取りあげられることにほかならなかった。

プリゴジンは当然、その指令を拒否した。すると、国防省はウクライナでの「特別軍事作戦」からワグネルを排除すると通告。資金や物資の支給を打ち切るとも明言した。

プリゴジンはそれに激怒。同年6月23日に発表した動画で、プリゴジンはなんと「プーチン大統領は騙されている」とまで口走ってしまう。それはプーチン体制ではタブーである“プーチンへの侮辱”を意味した。

プリゴジンの発言は「もともとウクライナにネオナチはいないし、ウクライナもNATOもロシアを攻撃する動きなどなかった」「ロシア系住民への弾圧もなかった」「したがって、もともとウクライナを攻める必要などなかった」「これはすべてロシア軍上層部が間違った情報をプーチン大統領に吹き込んだからだ」といった内容だった。

これらはまさに事実であるし、現場の兵士たちのあいだでは当然、そうした話も出ていたのだろうが、それをネットで公開するのはタブーである。プーチンがウクライナ侵攻を正当化するために明言した話がデタラメだったということになるので、これはプーチンの判断の正当性を完全否定する失言といってよかった。

そうなると、プリゴジンにはもうあとがない。プリゴジンはロシア軍から砲撃を受けたと主張し(これについては真偽含めて実情が不明)、同年6月24日未明、部隊を引き連れてロシア領内に進軍した。

プリゴジンは「正義の行進」と名付け、プーチン政権に自分たちの主張を認めるように要求した。その要求とは、ワグネルをこのままの状態で維持することと、ロシアを苦境に陥らせた元凶としてロシア軍上層部の責任を追及すること、とくにショイグ国防相とゲラシモフ参謀総長の更迭だった。

プリゴジンは、同じくロシア軍上層部に不満を持つであろうロシア軍兵士たちに、自分たちに合流するように呼びかけ、「邪魔する者は破壊する」と宣言した。あくまで敵は軍上層部であり、プーチン政権への批判ではなかったが、もちろんプーチン政権の指揮系統から外れた暴発だった。

これはロシア政府からみれば「反乱」に等しい行動だったため、ロシア軍からワグネル部隊に参加する動きは皆無だった。

本来なら、このワグネルの暴発部隊の行軍は、ロシア当局に阻まれ、制圧されるべき局面だったが、ここで奇妙なことが起きた。ワグネル部隊はロシア軍・治安部隊の抵抗をほとんど受けなかったのだ。しかし、同日午前10時、プーチンが声明を発表した。今回の蜂起を「裏切り」と断罪する内容だった。

これにより、プリゴジンの行動はプーチンに信任されないことが明白になった。プリゴジンは、それでも「たとえ大統領の命令でも自分たちを止められない」と宣言し、ワグネル部隊は北上を続けた。しかし、モスクワ市内まであと200㎞という地点に到達したとき、ワグネルは進軍を止めた。プリゴジンは進撃停止を宣言し、ワグネル部隊はウクライナ東部の宿営地に戻っていった。

プリゴジンの行動は親分への直訴

結局、プリゴジンはモスクワでの市街戦を回避した。軍上層部を批判はしても、プーチン政権に刃向かう意思はまったくなく、そこは踏み留まったともいえるが、軍事的にも勝つ見込みがなかったのだ。プリゴジン自身は、自分たちの兵力を2万5000人と言っていたが、最後までプリゴジンに従ったワグネルの兵力は約8000人程度と思われる。

戦車や対空ミサイルなども持ってはいたが、数はそれほど多くはなかった。米国の研究機関「戦争研究所」が紹介した諸情報のなかには、北上したワグネル部隊の戦車は9輌というものもあった。正規軍とまともに戦える規模ではない。

なお、ワグネルの兵力だが、のべ人数で4~5万人とされているが、損耗が大きく、2023年6月時点では1万5000~2万人前後だったとみられる。つまり、概算では当時の兵力の半分程度がプリゴジンに従ったことになる。

プリゴジンの行動は、単純に暴発と言っていい。彼は本気で、最後にはプーチンは自分の味方になってくれると考えていた。ショイグやゲラシモフに反感を持つ多くの兵士が参入して、大人数で自分の正しさを訴えれば、プーチンも目を覚まし、自分の言うことの正しさを理解してくれると思っていたのである。

▲ケータリング工場を視察するプーチンとプリゴジン(2010) 出典: Government.ru / Wikimedia Commons

彼がやろうとしていたのは政権への叛乱ではなく、デモ行進であり、親分への直訴だった。要するに、彼は思慮の浅いチンピラなのだ。

ただのチンピラの勘違い暴発である「プリゴジンの乱」は、当日のうちに終息した。米政府など西側陣営からは、これを機にプーチン政権の基盤が揺らぐことを期待するような情報発信が盛んになされたが、ロシアではプーチン政権はまったく揺らぐことはなかった。

少なくとも表面的には、まるで何もなかったかのように平常に戻った。モスクワ防衛のためにロシア軍の一部が本国に向かったが、すぐにまた戦場に戻された。ウクライナでの戦局にもほとんど影響は出なかった。