金成公信として、お笑いコンビ・ハローバイバイ、ギンナナと活動していたが、どちらも解散。一人となった芸人・千葉公平が活路を見出したのは、吉本興業のアイデンティティでもある「吉本新喜劇」だった。千葉県生まれの彼が、関西に拠点を移して約4年。地道な活動と抜群のポテンシャルを発揮して、今や大人気に。昨年の「吉本新喜劇座員総選挙」でも2位を獲得した。

そんな彼が主催するライブ『千葉公平なんばグランド花月初公演 千葉ちゃんと新喜劇ver.弍』が5月26日に、なんばグランド花月で開催されることが決まった。ニュースクランチでは、新喜劇に入った経緯、先輩芸人の助言など、千葉の芸人人生の分岐点を聞いた。

▲千葉公平【WANI BOOKS-“NewsCrunch”-Interview】

くっきー!に強く背中を押されて大阪へ

――吉本新喜劇の座員になりたいと思ったきっかけから教えてください。

千葉:コンビを2回やったんですけど、2回とも相方が「どっかに行く」と言い出して(笑)。2回目解散したときは、年齢も年齢だし、どうしようかなと思いました。僕は、もともとがダメ人間で、めんどくさがり屋だったんですけど、重い腰を上げて怖いほうを選ばないと、これからは食っていけないと思ったんです。

地方の新喜劇公演に出させてもらったり、(東京の)スペシャルコメディに出させてもらったりして、大阪に行きたい気持ちがあったので、新喜劇の道を選んでみようと思いました。当時は結婚もしてなかったし、身軽だったので、最後にあがいてみようと思ったんですよね。

――その決断ってかなり勇気がいることですよね。

千葉:いろんな人の声が大きかったです。最終的には、くっきー! (野性爆弾)さんのおかげでしたね。趣味で盆栽をやっていて、Instagramに載せていたら、くっきー! さんが「あれ、おもしろいな。古民家に住んで盆栽配信やれや」「大阪には安い古民家いっぱいあるで。大阪行けや」って。

当時、誰にも大阪に行くとは言っていなくて、悩んでいたんで「じつは……」と相談したら「新喜劇か!」と一発で見抜かれました。「行け行け。おもろいやん」と背中を押してくれただけでなく、その場で小籔(千豊)さんに連絡したるわって。​​「いや、まだ固まってないんで、やめてください!」と断ったんですけど、普段ふざけている男から「そんなもん、思い立ったらすぐ動け!」と一喝されて。

――かっこいい(笑)!

千葉:その後、小籔さんとお話する機会があって。自分が新喜劇に入りたいことや、東京にも新喜劇のような場所ができたら……と思っていることをすべて伝えたら「新喜劇は大阪のものやから、変なフランチャイズ作られても困んねん。でも、それを研究するのはお前の自由やから、骨を埋める気でおいで」と言ってくれて。“あったけえな”と思いました。

じつは、まだ大阪行きすら考えていないころ「なんかわからへんけど、お前、大阪に行って、小籔にいろいろ教えてもらえ」と言ってくれたのは、(ロンドンブーツ1号2号の​​)亮さんなんですよ。

お二人は同期で、亮さんは小籔​​さんのことを認めているし、昔から好きみたいで。もう何年も前に言われたことなんですけど、それが残っていて(大阪行きに)行き着いた、というのがあるかもしれないです。

――東京の先輩方も送り出してくれたんですか?

千葉:COWCOWの多田(健二)さんが「めっちゃええな!」と言ってくれたり、キム兄(木村祐一)も送別会を開いてくれたり、うれしかったですね。​​噂を聞きつけた宮川大輔さんからも「大阪に行くらしいな。最高やな!」と声をかけてくださって。

大阪に行くときも、皆さんからLINEをいただいて、新幹線で泣きそうになりました。そうして皆さんが温かいなかで、もともと大阪にいたはずの大山(英雄)さんだけは「新喜劇はそんなに甘ないで!」って。

――(笑)。

千葉:最終的には「頑張りや」と言ってくれました。

▲先輩からのエールに泣きそうになったと話してくれた

SNSで「いらんねん。関東人」と言われ……

――その後、関西に来て改名されましたよね。

千葉:いろいろ東京に捨ててきたので、ここで名前も変えようと。東京でもお世話になっていた(間)寛平​​さんに名前を考えてもらおうとお願いしたら、僕が千葉出身ということから「千葉真一」って言われたんですけど……「いや、もういます」と。

――(笑)。

千葉:結局、親からもらった名前を一文字残せと言うことで、本名の公信の​​「公」と、寛平さんの「平」をいただいて、千葉公平となりました。いざ、デビューということで、記者会見もやっていただいたんですけど、そこからすぐにコロナ禍になって、劇場の仕事もなくなりました。

でも、僕の中ではデビューはできたんで、滑り込みセーフ。今もそうですけど、芸人人生で一番プラス思考の時期だったんで、マイナスには感じなかったですね。

――実際に新喜劇の舞台に立ってみて、印象は違いましたか?

千葉:20年以上、芸人活動をしてきましたが、ちゃんと1年目でしたし、ちゃんと通用しなかったです。でも、それが逆に「やってやる!」という気持ちになれました。(座長の)すっちーさんの週のとき、これでもかっていうほどスベッたんですけど、終わったあと、すっちーさんがすげえ笑ってくれたんです。

あの人は、ずっと同じことをやるよりは、毎回チャレンジしてスベッたほうがいい、という方なんですよね。舞台袖で見ていても、すっちーさんは、前振りの芝居がめちゃくちゃうまい。細かい裏の芝居をしっかりやる人なんで、そういうことを勉強させていただきました。そうやって、(池乃)めだか​​師匠、川畑泰史​​さん、清水けんじ​​さん……いろんな方の良いところを見て、学ばせていただきましたね。

――大阪で活動を始めて約4年ですが、関西の方に受け入れられている実感はありますか?

千葉:僕なんて東京で全然うだつが上がらなかったし、大阪に行って、こんなに応援していただけるなんて奇跡だと思っているんですけど、最初はやっぱり厳しかったですね。SNSでも「関東弁がうっとうしい」とか「いらんねん。関東人」とか厳しいご意見もあったんですけど、少しずつ「関東弁でやってる違和感が、味になっていい」といった意見もいただけるようになって、“良かったな”という感じですね。

――たしかに“方言の壁がなかったのかな”という疑問がありました。

千葉:僕以外にも 関西出身じゃない若手の子もいるんですけど、だいたい関西弁に変えて練習しているんですよ。僕はそんなに言われなかったので、“ま、いっか”と関東弁のままでやっていました。あと、自分の中で“西も東もないじゃない。同じお笑い、同じ吉本興業”と思ってますし、絶対に混ざりあったほうが面白いと思うので、ラッキーでしたね。