現代史に大きな影響を与えたローズヴェルトの死

第二次世界大戦中、ソ連は約2000万人もの死者を出しながらも、1945年5月8日にヨーロッパ戦線を終結させました。

独ソ戦が始まった1941年6月22日から、ヒトラーの首相官邸に突入するまで、ソ連は約4年間も戦い続けました。その一方、アメリカとイギリスの上陸部隊が、ドイツ軍と戦った期間は1年にも満たなかったのです。

上記のような背景によって、ヤルタ会談は最悪な雰囲気で始まりました。当然ながら、会談ではイギリスとソ連が対立します。しかしアメリカのローズヴェルト大統領が仲介を取ることで、なんとか話をまとめることができました。

意外かもしれませんが、この時点においてアメリカとソ連は比較的良好な関係にありました。ローズヴェルト大統領は社会主義に近い思想を持っていたからです。1933年から1939年にかけて実施され、ローズヴェルトが主導した「ニューディール政策」には、失業対策や労働者保護などを目的とした社会主義の要素が含まれています。

ローズヴェルト大統領は、イギリス(資本主義)とソ連(社会主義)のあいだに入り、仲を取り持つことができたのです。第二次世界大戦後も、ローズヴェルトは資本主義と共産主義が共存することを願っていました。しかし、ローズヴェルト大統領にとって、ヤルタ会談は最後の仕事となってしまいました。

▲フランクリン・ローズヴェルト 出典:Leon Perskie / Wikimedia Commons

1945年4月、アメリカ軍が沖縄に上陸した直後、ローズヴェルト大統領は死去します。そして副大統領だったトルーマンが大統領に昇格しました。しかし、資本主義と共産主義の共存を目指したローズヴェルトの思いを、トルーマンは受け継ぎませんでした。

高卒で大統領に上り詰めた苦労人・トルーマンは、まさに資本主義的な考えを持つ人物でした。左派政党である民主党のなかでも、ローズヴェルトはさらに左寄りの人物でしたが、党内のバランスを取るため右派のトルーマンを副大統領に起用していたのです。

トルーマンの大統領就任は、ソ連に対する態度を一変させることになりました。トルーマンが大統領に就任した直後に核開発が完成し、トルーマンは強気になります。敗戦濃厚の日本に対する広島と長崎への原爆投下は、ソ連など共産主義国に対する脅しでもあったのです。

ローズヴェルトの死と原爆投下により、資本主義と共産主義の対立が一気に深まっていきます。原爆投下は第二次世界大戦の終わりではなく、冷戦の幕開けだったのです。

イギリスのチャーチルは、ファシズムと共産主義の共倒れを狙い、スターリンを怒らせましたが、ローズヴェルトの仲介により難を逃れました。しかしローズヴェルトの死、そして大統領になったトルーマンによる核兵器の実戦使用(原爆投下)によって、ソ連の資本主義国に対する不信感は頂点に達しました。

トルーマンによる広島・長崎への原爆投下は、激動の現代史をスタートさせる引き金だったのです。

科学者オッペンハイマーの苦悩

原子爆弾の開発を主導したロバート・オッペンハイマーですが、この映画では俳優キリアン・マーフィが演じています。広島と長崎への原爆投下後、自らが生み出した核兵器の非人道性と破壊力に深く心を痛めました。作中でも原爆投下後に幻覚に苦しむ様子が描かれていました。

今回の映画では、オッペンハイマーが反核の立場を明確に示す描写はありません。しかし、第二次世界大戦後、オッペンハイマーは核兵器廃絶を訴えるようになりました。核兵器の開発競争を防ぐため、核兵器を国際的な管理下に置くことを提案したのです。ところが、冷戦の進展に伴い、アメリカ国内で反共産主義が高まります。1954年、オッペンハイマーは共産主義者のレッテルを貼られ、公職を追われることになりました。

それでもオッペンハイマーは、核兵器の脅威について警鐘を鳴らし続けたのです。彼の思想と反核運動は「科学者の社会的責任」という普遍的なテーマを私たちに考えさせてくれます。

オッペンハイマーの生涯は、科学技術の発展が人類に多大な恩恵をもたらす一方で、場合によっては取り返しのつかない悲劇を生み出すことを教えてくれます。核兵器のない平和な世界を築くために、一人ひとりが声を上げ続けることの大切さを示唆しているのではないでしょうか。