2023年12月1日、リドリー・スコット監督の映画最新作、主演ホアキン・フェニックスによる歴史超大作『ナポレオン』が公開された。映画を見に行く前・見たあとでも勉強になる、知っているようで知らないナポレオンの基礎知識を紹介しよう。

4時間強の作品を2時間にカット

リドリー・スコット監督待望の新作『ナポレオン』が日本でも公開された。監督としては270分におよぶ超大作を世に送り出したかったが、大人の事情により大幅なカットを施し、157分に収めたという。

本編はフランス革命の真只中、王妃マリー・アントアネットが断頭台の露と消えた1793年10月16日に始まり、絶海の孤島セント・ヘレナでナポレオン・ボナパルト(1769~1821)が息を引き取る1821年5月5日で終わる。

8,000人ものエキストラを用いた合戦シーンも見ものだが、ナポレオンと6歳年上の妻ジョセフィーヌ(1763~1814)との関係性も丁寧に描かれ、合戦シーンとは別の意味で、瞬きをすることさえもったいなく感じられる。

▲「ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ」(フランソワ・ジェラール画 / エルミタージュ美術館蔵) 出典:Wikimedia Commons

この二人は奇しくもフランス本土の生まれではなく、ナポレオンはイタリア半島の西に位置するコルシカ島、ジョセフィーヌは西インド諸島に浮かぶマルティニーク島の出身。コルシカ島は13世紀以来、イタリアの都市国家ジェノヴァの支配下に置かれていたが、1768年、独立運動に手を焼いたジェノヴァがフランスに統治権を譲渡した。

その後も独立運動は続き、ナポレオンの父もその担い手だったが、のちに独立運動を見限り、フランスに帰順。そのためコルシカ島にはいられず、一家をあげてフランス本土に移住することとなった。

ナポレオン一家の母語はイタリア語のジェノヴァ方言。フランス語は第二の言語で、ナポレオンはそれに習熟するまで時間がかかり、パリの士官学校在学中は同級生からバカにされ続けた。そんな連中を見返すべく、兵法や戦術の学習に精魂傾けた結果が、軍人としての成功につながったのだ。 

出身地と言語のせいで常に疎外感を覚えていたナポレオンが、場所こそ違えど、同じく離島出身のジョセフィーヌと惹かれあい、相思相愛の仲となったのは運命の巡り合わせと言ってもよいかもしれない。

稀代の英雄? それとも悪魔?

映画『ナポレオン』のオフィシャルには、「英雄と呼ばれる一方で、悪魔と恐れられた男」「彼を駆り立てたものは、一体何だったのか?」「生涯で率いた戦いは61」などの文句が並ぶ。

ナポレオンを悪魔と見立てた人々のなかには、ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝フランツ2世も間違いなく含まれる。962年以来の歴史を持つ神聖ローマ帝国の看板を下ろしたうえ、愛娘をナポレオンの新たな后として差し出すよう迫られたのだから。

イギリスのウェリントン将軍と教皇ピウス7世もナポレオンを悪魔と見立てた側である。ウェリントンはナポレオンからの和平提案をことごとく撥ねつけ、ピウス7世はナポレオンの戴冠式に招かれながら、ナポレオンが自らの手で帝冠を被り、同じ手でジョセフィーヌに后冠を被せたせいで、ただ傍観するしかないという、とんだ屈辱を味わされた。

ナポレオンの教会軽視はここに始まるわけではなく、ジョセフィーヌとの結婚式も、聖職者の立ち合いのない民事婚で済ませており、フランス革命の指導者たちと同じく、長らく免税特権を許されていた教会を快く思わずにいたものと考えられる。

▲「ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠」(ダヴィッド画 /
ルーヴル美術館蔵) 出典:Wikimedia Commons

ナポレオンが生涯に率いた戦いは61を数え、明らかな敗北はモスクワ遠征とライプツィヒの戦い、ワーテルローの戦いの3回だけ。驚異的な勝率である。当然ながら、諸外国はその強さの秘密を探り出し、よしんば自軍に取り入れようと考えた。

そのせいか、ナポレオンの前と後で、ヨーロッパの軍隊に大きな変化が生じた。全軍のなかで騎兵の占める割合はワーテルローの戦いを境に減り続け、傭兵の占める割合に関しても同じことが言えた。フランス革命を機に生まれた国民軍という、現在では当たり前の軍構成が、総合的に見て、傭兵に勝るとの見方が広く共有され、フランス以外でも続々と採用された。

それと同時に、若者や知識人のあいだでは国民国家という概念も広まり、分立が常態化していたドイツとイタリアでは統一運動、オスマン帝国のような大国のもとでは、特にキリスト教徒のあいだで独立運動が芽生えることとなった。

英雄か悪魔から別として、ナポレオンの興亡が歴史を大きく動かしたことは間違いない。本編では描かれずとも、これらの予備知識をもっていれば、世紀の大作を何倍も楽しく鑑賞できるはずである。