昨年お披露目され話題となった映画のなかでも、印象に残る3作品がついに日本でも4月26日に同日公開となる。それぞれに驚きを秘めた展開が後を引く作品をご紹介します。このゴールデンウイークにぜひご覧いただきたい。
エルガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命
少年をある家から連れ去る一団。そして彼らは教皇のお膝元へと向かった。19世紀イタリアで実際に起こった教皇による誘拐事件だ。
イタリアの巨匠マルコ・ベロッキオ監督作で、原題はイタリア語でRapite、英題はKidnapped、両方とも誘拐の意。連れ去られたのは、モルターラ家のエルガルドだ。
教皇が子どもを誘拐とは驚くが、言い分はあった。
その一帯はユダヤ人街で、モルターラ家もユダヤ人だった。だが、エルガルドは幼い頃、両親の知らぬ間に洗礼を受けていた。
キリスト教徒だったメイドが、病気になったエルガルドを、このままでは死後に冥界をさまよってしまうと、両親のいないときに聖職者を呼び、洗礼を受けさせてしまう。結局、病は癒え、エルガルドは亡くなることもなかった。
それが教皇の知るところとなり、エルガルドはユダヤ教徒に育てられているキリスト教徒と認識された。キリスト教徒が異教徒に育てられてはいけない、それで誘拐することにしたのだ。
親兄弟と引き離され、泣いているのもつかの間、キリスト教育を受け、立派なキリスト教徒になっていくエルガルド(少年期エネア・サラ、青年期レオナルド・マルテーゼ)、子どもの高い順応性が哀しい。
当時にあってさえ非難の巻き起こった事件で、背景には勢力争いもあり、教皇(パオロ・ピエロボン)が、『ゴッド・ファーザー』(マーロン・ブランド)みたいに見えてくる。
悪は存在しない
前作『ドライブ・マイ・カー』(2021年)のアカデミー賞国際長編映画賞受賞で世界的に注目を集める濱口竜介監督の新作。
日本公開より前に、海外で公開されていることにも注目の高さがうかがえる。現在公開中のイギリスでは、英国映画協会が発行する雑誌『Sight and Sound』の表紙を濱口監督が飾っている。
村上春樹の同名短編小説に大きく肉付けし、新たに加えた演劇シーンなど感動を呼んだ前作に対し、今作は良い意味で消化の難しい作品だ。鑑賞し終えたあと、いつまでも考えこんでしまう。
というのも、誰にも予想できない結末で驚きのうちに終了し、タイトルと結末の意味にわかりやすい答えを与えてくれない作品だからだ。
結末がわかっては台無しなので、過去作から遠回りしたい。
濱口作品には見誤りを誘うようなところがある。たとえば前作では、主人公(西島秀俊)の妻(霧島れいか)の浮気相手(岡田将生)だ。人妻や共演者らとすぐに関係を結ぶ俳優だが、女関係ではない事件を起こす。
こちらが勝手に女たらしの二枚目俳優と思っていたものが、深い闇を抱えた人物として薄気味悪く立ち上がってくる。
『寝ても覚めても』(2018年)はさらに顕著だ。恋人(東出昌大)に突然、姿を消された主人公(唐田えりか)が、彼とそっくりの男性(東出の一人二役)と出会ったあと、また恋人が現れる。
何も告げず、どこかへ行ってしまう恋人、当初はその自由奔放が大きな魅力と思える。それが、相手を気づかうそっくり男性と出会ったあとには、むしろ短所に見える。相手のことなど一切考慮せず、自分のことしかない行動は、サイコパスめいて不気味に感じるほどだ。
今作は、山里に暮らすシングルファーザー(大美賀均)と娘(西川玲)が主人公で、山の暮らしが描かれていく。その土地にレジャー施設の建設計画が持ち上がる。施設より低い場所に住む村人の使う水を汚染する恐れがある、ずさんな計画だ。
だが、もちろん村人対施設計画という単純な二項対立ではない。最後まで見て思い起こされるのは、その対立構造からはみ出す、違和感のある場面だ。ささいなこととして流してしまう場面にこそ、結末につながる何かがある。