神武東征は『記紀』には書かれていない
「神武東征」は、鎌倉時代以降になって創作された話で『日本書紀』や『古事記』には書かれてないというと、皆さんコロンブスの卵だと驚かれます。
戦前の皇国史観のなかでは、日向の領主だった神武天皇(イワレヒコ)は神のお告げで、大和へ向かって大軍勢を率いて東征に出発したとされていました。宮崎県の美々津には神武天皇船出の地があって、出で立ちの日は日本海軍創設の日とされていました。
しかし『記紀』には、神武天皇が日向の国で領地を持っていたようには書いていませんし「東征」に最初から参加していたメンバーの名は6人しか記されておらず、大軍を率いたようには読めません。とくに、女性は日向に置いたままで同行していません。
つまり、少人数で日向を出奔した集団が、おそらく各地で傭兵稼業などしながら成長し、奈良盆地南西部にある橿原市から御所市あたりを領域とするクニの支配者になったということでしょう。
神武天皇とその子孫は、大和各地の有力者の娘と縁組みをし、10代目の崇神天皇のときに大和を統一し、吉備とか出雲までを勢力圏に入れました。とくに出雲については、親九州派と親大和派の争いがあったことが『日本書紀』に書かれています。
その後、12代目の景行天皇とその息子のヤマトタケルのとき、関東や九州の筑紫以外の地域にまで勢力を拡げました。景行天皇とその子のヤマトタケルは、日向に遠征していますが『日本書紀』は、彼らが先祖の墓参りをしたとは書いていませんから、皇室の先祖に伝わっていたのは、先祖は日向からやってきたという漠然とした伝承だったのでしょう。
宮崎神宮は、明治になるまでローカルな信仰対象で皇室と縁はありませんでした。高千穂神楽も、江戸時代に国学が流行して以降の、仏教の踊りから派生したものです。
しかし、その土地に初めて移住してきた初代についての伝承は、割に正確なことが多いので、日向出身のイワレヒコは実在である可能性が高いと考えています。
いわゆる神武東征という仰々しい話になったのは、鎌倉時代後半以降で『神皇正統記』あたりに萌芽がみられますが、この脚色のため、かえって現実性の薄い物語という印象を与えているだけで、『記紀』の内容は十分に現実的なのです。
こうしたことに気付いたのは、いまから30年ほど前のことで「霞ヶ関から邪馬台国を
みれば」というタイトルの小論を『中央公論』に掲載しましたが、それが、私の古代史についてのデビュー作でした。
※本記事は、八幡和郎:著『歴史の定説100の嘘と誤解 世界と日本の常識に挑む』(扶桑社:刊)より一部を抜粋編集したものです。