奴隷制の歴史と南北戦争

イギリスでは1713年に、スペイン継承戦争の停戦条件の一つとして奴隷貿易への参入が認められて、アメリカにも多くの黒人奴隷が運び込まれました。しかし、1807年には奴隷貿易が禁止され、黒人同士を結婚させたり、農場主が女奴隷に子どもを産ませたりして補充し、その数は400万人ほどになっていました。

リンカーンは、南部における奴隷をすぐに解放しようとは思っていなかったし、黒人と白人が共存するアメリカ合衆国を目指していたわけではなかったのです。まずは、既得権としての奴隷制度は認めるが、それを南部に限定することと、いずれは有償で解放し、中南米のどこかにつくった黒人国に移すことを考えていたようです。

とくに混血を嫌い、奴隷制が混血児の誕生を促進していると考えていました。北部の自由州での混血児の誕生は少なかったからです。ミズーリやケンタッキーなど奴隷州でありながら、連邦に留まった境界州(ボーダー・ステーツ)への配慮があったことも言うまでもありません。

1861年2月、アラバマ州のモントゴメリで会合した7州の代表は、アメリカ連合国(コンフェデレート・ステーツ・オブ・アメリカ)の組織を結成しました。ミシシッピ州出身のジェファーソン・デイビスを大統領に選出しました。

なお、南部連合に参加したのは、バージニア・ノースカロライナ・サウスカロライナ・ジョージア・フロリダ・アラバマ・テネシー・ミシシッピ・アーカンソー・ルイジアナ・テキサスの11州で、奴隷制が認められていた州でもデラウェア・メリーランド・ケンタッキー・ミズーリは合衆国に残留していました。

▲連合国大統領就任時のデイヴィス(1861年) 出典:ウィキメディア・コモンズ[Brady-Handy Photograph Collection]

外交面では、イギリスは伝統的に南部との交易が盛んであり、フランスはメキシコへの勢力浸透を目指していたので南部独立は好都合でした。両国は中立を宣言し、独立を容認する立場を取ったのですが、英仏の南部への支援を牽制する必要がありました。

サウスカロライナ州にあるサムター要塞の明け渡しをめぐって戦端が開かれました。南部がリー将軍らの活躍で予想外に善戦するなかで黒人の離反を促すとか、北軍の保護下に入ってきた黒人の扱いに困ったという事情もあるなか、ゲティスバーグでの勝利(1863年7月)の機会を捉えて断行された「奴隷解放宣言」(1863年1月1日)で狙い通りの効果をもたらし、グラント将軍らの活躍で北部が勝利しました。

※本記事は、八幡和郎:著『アメリカ大統領史100の真実と嘘』(扶桑社:刊)より一部を抜粋編集したものです。