慶長の役は勝ち戦で有利な条約が期待できた
NHKの大河ドラマでは、文禄・慶長の役を扱うことはタブーです。大活躍した加藤清正は主人公にできないといわれています。
『軍師官兵衛』でも、史上初の陸上での日中正面対決だった碧蹄館(へきていかん)の戦いでの大勝利だというのに「なんとか明軍の攻撃をしのいだものの……」という言葉だけで片付けられ、画面に出てくるのは、明軍に哀れにも虐殺される日本の武士たちの姿だけで、日本の放送局が制作したとは思えませんでした。
この戦争は、明が朝貢以外の貿易を拒絶し続け、南蛮船に貿易を独占されるというなかで、危機感を持った秀吉が東アジアの盟主として、南蛮船にも対抗できて海上にも強い帝国の建設をめざして立ち上がった、というのがメインストーリーです。
そして、明についた朝鮮を日本が攻めたわけで気の毒でしたが、単純な侵略戦争ではありません。元寇のときは元と一緒に日本を攻めたのですから、今度はこっちにつけというのは当然です。
勝敗ということになると、戦後の日本では、文禄の役では破竹の勢いで日本は快進撃でしたが、明軍の到来とともにソウルまで後退し休戦。慶長の役では、苦戦して進めないうちに秀吉が死んで喜んで撤兵したというような受け取りです。
たしかに文禄の役では、あまりにも朝鮮王国軍が弱体で、民衆も日本に好意的だったので快進撃をしすぎました。国王はろくに抵抗せずに逃げ出し、民衆が景福宮を略奪し焼きました〔韓国に古い寺院が少ないのも李氏朝鮮が仏教を弾圧したからで、日本のせいではありません〕。しかし、兵站線を延ばしすぎて苦しみました。
慶長の役では、それに懲りて沿岸部に倭城を築いてしっかり基盤を固め、1599年の春になったら大攻勢をかけて漢城を落とす予定でした。
ところが秀吉が死んだので、いったん撤兵することになり、それを聞いて勇気百倍になった明軍などに苦戦したものの、奮戦して窮地は脱し、水軍も撃退して司令官の李舜臣も戦死させたということです。
ですから、明の記録をみても、秀吉の死でなんとか窮地を脱したといった受け取りでした。まして、李舜臣を東郷元帥が尊敬していたなどというのは都市伝説にすぎません。
それでは、そのまま戦争が1年続いたらどうなったかといえば、琉球王国を征服したあとの講和条件に近いものになったのかもしれません。つまり、若干の領地の割譲、漢城にお目付役を置く、朝鮮を仲介にしての日明貿易の実施、といったあたりです。そのあたりなら明が拒絶していたとは思えません。
※本記事は、八幡和郎:著『歴史の定説100の嘘と誤解 世界と日本の常識に挑む』(扶桑社:刊)より一部を抜粋編集したものです。