日本への朝貢使節で対等の外交ではない

関ヶ原の戦いに先立ち、徳川家康が会津攻めの口実にしたのが「第3次朝鮮出兵について相談したいので、上杉景勝に上洛せよ」と言ったが景勝が出てこない、ということでした。家康は平和主義者で無謀な戦いを終わらせたなどといわれていますが、家康も戦闘再開を臭わせつつ朝鮮側と交渉したのです。

明との貿易を朝鮮に仲介してもらおうとしたようですが、明から断られました。そして、とりあえずは朝鮮通信使の受け入れということになりました。

これは少なくとも日本側からすれば朝貢使節です。しかし、朝鮮側からすればそうでないと強弁できる余地を残しています。将軍に朝鮮王の書状を差し出すときに、使節は四方礼をするのですが、これについて朝鮮側は、将軍でなく王の書状に対して四方礼をするのだと、仲間内では位置づけたりして自己満足していました。

幕府のほうでも、手を替え品を替え、朝貢使節らしいことをさせようとして、東照宮や秀吉の造った大仏のある方広寺に参拝させようとするなど、丁々発止のやりとりをしています。

▲狩野安信『朝鮮通信使』大英博物館蔵 出典:ウィキメディア・コモンズ

朝鮮から大規模な朝貢使節がやってくるのは、幕府の権威を高めるというので、大いに宣伝し、大接待をして歓迎しました。そのあたりの潤滑油になっていたのが対馬藩ですが、国書の偽造までしたこともあります。

また松平定信は、通信使の来日とその歓迎行事が財政的にも負担だし、儒学者らが通信使に漢文の教えを請うなどして朝鮮側を増長させるし、幕府の権威がゆらいでいるのを朝鮮側に知られたくないとして、対馬で交流行事をすませることにしました。

ちなみに、対馬藩の儒者で雨森芳洲という人がいて、善隣外交を唱えたと盧泰愚大統領 が褒めて有名になっています。雨森はそれなりの見識者ではありますが、なにしろ中国に生まれなかったことを嘆いていた人です。

日本の朱子学の祖と言われる藤原惺窩も、韓国人に対して、中国と一緒に日本を攻めて日本を聖賢の国にして欲しいと要請した大バカ者で、彼らの中国かぶれは救いようがありません。

いずれにせよ、日本側に対等の国交という意識はまったくありませんでした。対等の交流だったというのは、戦後になって韓国側からのプロパガンダとして言いだされたもので、それに乗せられている日本人の愚か者がいるというだけです。日本と半島の国のあいだで対等の関係が結ばれたことは、近代以前には一度もありません。

※本記事は、八幡和郎:著『歴史の定説100の嘘と誤解 世界と日本の常識に挑む』(扶桑社:刊)より一部を抜粋編集したものです。