大学進学を考えていたウルムチ出身のムカイダイス氏は、ウイグル人が漢民族の国で生きることの現実を高校3年生のときに初めて知ったという。飛び級するほど成績優秀だったとしても、大学を自由に選ぶことができなかったのだ……。中国政府による不当なウイグル支配の実体験。

▲ウルムチ市 出典:PIXTA

少数民族の“人生”を拘束する中国共産党

高校を卒業するまで、私は建築家になりたいと思っていた。なれると信じて疑わなかった。

ウルムチにある自宅の快適さと明るさ、アトゥシにある母の実家の神秘さと美しさは、私の子ども時代を豊かにしてくれた。そして、祖父母の家は人間を大自然の一部として自給自足を可能にしながら、人間が生活や人生に飽きないで生きていける、また過酷な環境から人間を守る多機能な家だったと思っている。

ウルムチの家は、大自然から光を取り入れた開放感のある実に快適な家だった。ウイグルは月と星空がこのうえなく綺麗な場所だが、この家は南向きの大きな窓を通して、ウイグルの夜空の美しさを家にいながら鑑賞できた。満月の明かりが、夜中にレースのカーテン越しに母が育てていたゴムの木の大きな葉っぱに注ぐ美しい光景を、私は今でも思い出す。

私は知らず知らずのうちに、祖父母の家とウルムチの家の2つの建築様式を一緒にした家を作れば、ウイグル人にとって最も住み心地の良い家ができるのではと思っていた。

私は、中国でトップの大学の建築学科を目指しながら高校生活を送った。しかし、高校3年生のときに担任から特別に手渡しされた「ウイグル人用進学用紙」を見たとき唖然とした。ウイグル人が申請できる大学と専科は、あらかじめ決められていて「幼児教育」「外国語」「経済数学」のみと記されていた。それを見たときの絶望感は一生忘れない。

ウイグル人の私は、漢民族の国で生きることの現実を、そのとき初めて知った。同時に「少数民族」である私の人生を全て決めてしまう、彼ら共産党の尊大さを突きつけられた瞬間でもあった。それまで薄々気づいていたのだが、どこかでそれを信じていなかった。その現実を受け止めずに、あたかも他の皆と同じように生きるように望み、その挙句、現実に目を瞑り、自分を騙していたのだったということもわかった。

飛び級するほど成績優秀だった私の成績は、なんの意味もなかった。心の中が冷め、すべてが嫌になった。

いつか帰れる日がくることを願って

私は家にある、父のロシア語の本でも読もうと思って、上海の大学のロシア語学科に進学することに決めた。クラスには、上海人を含む中国各地から来た女の子が7人いた。寮も一緒だった。クラスメートの漢民族とは大変仲が良かった。

大学3年生のときに、私はクラスメートの7人の女の子を連れてウイグルを旅した。私たちはウルムチからトルファン、イリ経由でバスと汽車を乗り継ぎ、ウイグルの南の果てのパミール高原まで行った。パミール高原の奥地にある村の美しさを聞いて、行ってみることにした。

▲パミール高原にあるブルンクル湖 出典:PIXTA

険しい山と森に囲まれたその村は、1年中深い雪に囲まれ、夏の間の3ヶ月間だけ外の世界とつながる山奥の村だった。師範大学在学中の私たちは、自然と村の小学校に行ってみた。

村には小学校しかなく、中学校と高校は村から車で1時間もかかる町にあるために、子どもたちは小学校を卒業すると、町の寄宿学校に移る必要があり、12歳前後で親元から離れることも知った。私も12歳で親から離れ、北京の高校に行った。なぜかここの小学校の教師になり、12歳で親から離れた先輩としての経験を、ここの子たちに教えてあげたいと強烈に思った。

ウルムチに戻ったときに父親に相談したら、大喜びで私に車を買ってくれる約束をしてくれた。そして村の橋を直すように、大金を渡してくれるとも約束してくれた。しかし父は、こう言った。

「大学を卒業しただけでは、子どもたちに教えられることは限られている。どこか文化的な外国にしばらく留学に行ったら、その外国のことや文化も教えられる。そのほうが、子どもたちは喜ぶだろう」

私は父の言葉の通りだと思った。そして日本に留学することにした。しかし、その後ウイグルの政治状況が激変したために、今はまだ帰れていない。いつかあのパミール高原の小学校の教師になり、ウイグルの子どもたちをきつく抱きしめてあげられる日が来ることを夢見て、今を生きている。

※本記事は、ムカイダイス:著『在日ウイグル人が明かす ウイグル・ジェノサイド』(ハート出版:刊)より一部を抜粋編集したものです。