ウルムチ出身のウイグル人、ムカイダイス氏が小学校に入る前にいつも一緒に遊んでいたのは、モンゴル人の男の子、漢民族の男の子2人、ウズベク人の女の子、タタール人の男の子、カザフ人の女の子だったという。そのなかでも、一番仲が良かったのは漢民族の小強とモンゴル人のマンデラについて語ってくれた。
親友はモンゴル人と漢民族の男の子
私たちはそれぞれ自分の言語で互いに話していた。私はウイグル語で、小強は中国語で、マンデラはモンゴル語で話していた。またそのことを当たり前に思っていて、互いの言っていることを完璧にわかっていた。またそれは大変心地が良かった。
マンデラの父と私の父は親友で同じ職場にいた。マンデラの母は大作家で、マンデラは彼らの一人息子だった。マンデラの親は私のこともとても可愛がってくれ、いつもおいしいものを握らせてくれていた。そしてマンデラのモンゴル語を完璧に理解している私をいつも褒め、不思議がっていた。私はマンデラの家によく遊びに行った。家族ぐるみの濃厚な関係だったように覚えている。
ある日、私の父とマンデラの父が豪快にお酒を飲んでいたときに、マンデラの父はモンゴル語の歌を歌いながら父に酒を注ぎ「今のモンゴル人は右の翼が歌、左の翼が酒である」と言った。父はすかさず「チンギス・ハンは馬と武器を翼に世界を征服したのに、今のお前らの翼は酒と歌か、随分と落ちぶれたものだ」と冷やかし、マンデラの父もすぐに「人のことを言える立場か。そう言うウイグル人のお前らはどうなのか」と答え、二人とも笑っていたのを覚えている。会話はモンゴル語だったが、私には子どもながらに全部わかった。
マンデラの父は、その後、新疆のバインゴルン・モンゴル自治州のトップになって、コルラ市に引っ越してしまった。それからマンデラと会っていないが、時々思い出す。モンゴル語はもうさっぱり忘れてしまった自分が情けない。
子どもの時代を一緒に過ごした子たちのなかで、ウズベク人の女の子はウズベキスタンに渡ったと聞いた。タタール人の金髪碧眼の男の子は、新疆大学に入ったことだけは知っているが、その後の消息はわからない。
カザフ人のジャーナルも高校時代にたまに会ったけれど、その後はわからない。漢民族の男の子2人のうちの1人は、私と同じく上海の大学に進んで、その後アメリカに行った。今は家族と一緒にニューヨークに住んでいる。もう1人のもっとも仲の良かった小強は、新疆軍区のトップに近い位置に昇ったと聞く。彼とはマンデラの次に仲が良かったため、彼の話を少ししたい。
生まれて初めて入った漢民族の家
小強こと王国強は「中国エネルギー省新疆管理局」のトップの息子だった。保育園も一緒で、よく一緒に遊んでいた。彼は子どものときから本を読むことや勉強が大嫌いだった。
そして、勉強や学習を嫌う態度を隠そうともしない堂々たる性格だった。小学校は別々だったが、私は彼と一緒にウルムチ唯一の重点中学校を受験した。彼はトップの成績でその中学校に合格を果たし、私には「親父の力だよ」と自慢し笑っていたが、結局授業についていけなくなって、だんだんと欠席するようになった。中学校三年になると、ほとんど学校に来なくなっていた。
ある日、学校から預かった重要な通知を彼の家に届けるように先生から言いつけられた。私は恐れながら「中国エネルギー省新疆管理局」のトップである王局長のマンションに向かった。驚いたことに、マンションの外からは決して見えないが、入り口に若くてハンサムで完全武装した護衛が2人立っていた。
彼らはウイグル人の私を見て少し驚いた様子だったが、笑顔でそして無言で「どうしたの?」と聞くような合図をした。雰囲気は厳かだったため、小さな声で事情を告げ、宿題を渡して帰ろうとした。
そのとき、部屋の鉄のドアが開いて、普段よりも一段と態度がでかくなったような王国強の頭が見え「入って、入って。渡すものがある。先生に届けてくれ」と言った。その言葉で、私は生まれて初めて漢民族の家にお邪魔することになった。
私が通された部屋は、会議室のようにも見える広々とした殺風景な部屋だった。入った瞬間、何か独特な匂いを感じた。その匂いは、ウイグル人家庭の草花の匂いが混じる清潔で暖かい清々しい匂いとまるで異なる匂いであった。
会議室のような部屋の真ん中に、王局長が新聞を広げて読みながら座っていた。想像さえしなかったが、王局長は非常に細くて、顔が皺くちゃで、歯が不揃いの初老の人だった。王局長は北京中央政府の老子号領導の子孫と噂で聞いていた。
王局長は、部屋のなかに入ってきた私を、両手で広げた人民日報の上からなんとも言えないような不気味で鋭い目線で眺め、純北京方言の中国語で私に「偉大な我が党のおかげで、少数民族幹部の娘も良い学校で頑張っているのは良いことだ。党への感謝を胸にもっと勉学に励み、将来、国と党に恩を返せるような有意義な人材になるために励みなさい」と言った。
王局長の挨拶がわりの長い言葉を聞きながら、私は彼の長く伸びきった爪を眺めて、すごく不愉快な気分になっていた。この言葉は、いつもどこかで漢民族に言われるので、子どもの私でも到底納得できるものではなかった。
中国語という違う言葉の壁を越え、漢民族の学校でトップの成績で頑張っていると、私は親や親族にチヤホヤされていたため、この言葉を聞くたびに不愉快に思っていたのだ。
私は王局長に口応えはしなかったものの、いい大人だから爪を切ればいいのに、服もダサい。このような爪も切らない、そして狐のような醜い漢民族老人の部下として働く、ハンサムで長身、髪が薄い茶色で天然パーマの父を思い浮かべ、なぜか父を不憫に思った。