ウルムチ出身のウイグル人、ムカイダイス氏が幼少期に過ごしていたギュルトペ・マハッラ。そこでは漢民族を見たことさえなかったのだが、中学一年生の夏休みに行ったときには状況が一変していたという。母の実家である鍛冶屋が、何百年もの職人の歴史に幕を閉じることになった理由に迫る。

鍛冶屋一族の祖父が語ってくれた物語

私の母の実家は、ウイグルの南の無花果(イチジク)で有名なアトゥシにあり、その町で17代続いているとも言われる老舗の鍛冶屋だった。私が小学校を卒業するまでの夏の間、私はウルムチを離れ、祖父母の家で過ごすことが多かった。

祖父は村の小学校の校長も務めていたため、家に本がたくさんあった。祖父母の家は伝統のウイグル彫り(木や建物自体に鎌倉彫のような美しい彫り)を施して作られた美しい大きな屋敷だった。

▲クズルス自治州の中のアルトュシュ市の位置 出典:ウィキメディア・コモンズ

馬が大好きな祖父は、馬小屋のなかで何頭かの駿馬を飼育していた。私は怖くて馬に近づくことはできなかったが、馬小屋の外に椅子を置いてもらって、座ったまま馬を眺めているのが好きだった。

家には広い果樹園が隣接していて、無花果をはじめ、石榴(ザクロ)や杏、葡萄などが作られていた。ここは迷宮のような家だった。その原因は家の大きさと造りの入り組んだ複雑さだけでない。そこには昔からの不思議なものがたくさん置いてあって、それにまつわる物語が大変面白かった。

私が一番好きな物語は、美しい模様がぎっしり刻まれた、開かずの鉄の箱にまつわる物語だった。その箱は、家業の鍛冶屋と職人の守り神として大切に保管されていた。

祖父によれば、祖先は遥か遠くから、鉄をいっぱい入れた袋を馬に載せて、パミール高原と氷山を越えて、この地にやってきた。祖先のエズーズ氏は、鉄を知り尽くした匠であり、邪悪な鬼も切り倒せる、鉄の剣を作る技術とともに、剣術に優れた英雄でもあったとのことだ。

彼はある夜、人間を襲った鬼を退治し、鬼の自慢の美しい髪の毛を切り落とし、肌身離さずに持ち歩いた。鬼は髪を返してくれと頼んだが応じず、この地域の鍛冶屋一族やそのゆかりの人間を決して傷つけないと誓約書を書かせてから、鬼に髪の毛を返した。この地域にいる限り、悪事は起こらず、皆が守られるということだ。その誓約書が箱の中に入っているという。

話が真実か否かはわからないが、幼かった私は、そのあとから鬼が出そうな暗いところが、全く怖くなくなったことだけは確かである。私の母の実家にまつわるこの話を、今でも時々思い出す。

日本に来て感じたペルシアとのつながり

興味深いのは、私の祖先が鉄を持って、遥か遠くから中央アジアのオアシスにやってきたことである。遥か遠くというのは、おそらくペルシアではないかと推測する。

私は日本に来てから初めてペルシア人に会い、その文化を知った。彼らに「あなたは
イラン人か」と聞かれるたびに、私の祖先とペルシアのつながりについて確信を持てるようにはなったが、その経緯については全く手がかりがない状態である。

この鍛冶屋一族が住む集落は「ギュルトペ・マハッラ」と呼ばれていた。ギュルトペを日本語に訳すと「花の丘」という意味になる。

つい最近、たまたま読んだ日本の経済学者・関岡正弘先生の『マネー文明の経済学』という本で、この名前が世界最古の貿易文書を出土していた、トルコの地名(キュルテペ)と似ていることがわかった。この2つの似た地名に、何か関連性があるかどうかはわからないが、気になるところではある。

その名の通り、ギュルトペ・マハッラは小高い丘の上の集落であり、人々は丘のほぼ真ん中を通る大きな通りの両側に家を構えていた。集落のあらゆるところに水路があり、水路が作られるときには、両側に白楊木(どろのき)の苗が植えられる決まりがある。

▲白楊木(ギンドロ) イメージ:PIXTA

ウイグル人の家に入るときには、その水路に架けられた家々固有の綺麗な橋を渡るが、どんな家も果樹園が隣接している。これは、夏場に取れた杏やリンゴ、無花果などをドライにして、長くて厳しい冬を過ごすためのビタミン補給源にするためだ。

私が小さいときに、鍛冶屋たちは美しい鉄のベッドや鉄の窓の防犯柵を作っていた。ベッドの花形の飾りの作り方は、まず砂を湿らせ、その砂の中に型を埋め込む。そして砂の上から穴を空け、溶けた真っ赤な鉄を流し込むのだ。このようなやり方は、ウイグル独特なものかどうかはわからないが、大変不思議であったことは覚えている。