ねじ曲がった解釈により生まれた新たな官僚文化
では、現実の情報公開法が、国民のためになっているのでしょうか。
見逃してはいけないのは、情報公開法施行を背景にして、官僚機構に新しい文化が生まれたということです。「行政機関内部で自由に記録が残せない」という文化です。
情報公開しなければならないということであれば、結局は叩かれて批判されるので、大事なことはできるだけ文字に残さないようにしよう。そういう文化が行政側にできあがりました。情報公開法の施行前は、省庁から国立公文書館に年間1万7,000冊余りの公文書が移管されていたのに、施行後は674冊にまで激減したとか(小川千代子 他:編『アーカイブへのアクセス』日外選書/2008年)。
こういう文化ができあがっているのに「捨てるな」「隠すな」「見せろ」と要求しても「最初からありません」で終了です。「あるはずだ」と言っても、単なる押し問答にしかなりません。
言葉をもう少し正確にしましょう。「捨てるな」は、アーカイブの世界では「保存」です。「見せろ」は「公開」です。保存と公開だけ言っても「隠すな」にはなりません。
では、どうすればよいのでしょうか。
抜け落ちている「整理」=「アーカイブ」の視点
アーカイブの世界には、大事な過程が三つあります。最初は「保存」、最後が「公開」です。そして、その真ん中に最も大事な部分があります。「整理」です。
保存し、整理し、今はデジタル時代で効率化されていますが、紙文化の時代においては保存場所も大変なので、何を残して何を捨てるかという手間のかかる取捨選別作業を経て、最終的に捨てるものと公開するものとに分かれます。
この流れが「保存」「整理」「公開」です。
行政に「隠すな」と要求するなら「整理」の方法論を提示すればいいのです。そんなに国民主権の民主主義が大事なら「こういうふうに整理しなさいよ」と方法論を、学術的に提示し、守らせればいいのです。
この「整理」こそが、一番大事なところです。整理する方法を「アーカイブ」といいます。アーカイブが確立されていなければ、何を残して何を捨てるかという判断などできるはずがありません。
安倍内閣の時代に限ったことではなく、情報公開に関する批判は、それ以前から「保存しろ」「公開しろ」としか言いません。政府の側も、そうしたワンパターンの批判に対してムキになって隠します。真ん中の「整理」が抜けているから、それしかやりようがないのかもしれません。批判されている官僚の側も「じゃあ、どうすればいいの」が本音なのでしょう。
真面目な官僚こそ、ちゃんとしたアーカイブを教えてくれれば守ります。アーカイブは、官僚自身を守る術なのですから。
安倍内閣時代に起きた事件によって、公文書は捨てるものであり改ざんするものである、という風評が文化として定着してしまったきらいがあり、非常に不幸な状態となりました。
「整理」があって、初めて何を残して何を捨てるかという判断ができるはずであるという視点が、批判側にも政府側にもありません。