秀吉の妻・北政所寧々から見た戦国時代。秀吉と寧々、ふたりを取り巻く人々の歴史を「寧々さん」の回想で綴る戦国日記。今回は本能寺の変の感想と予備知識を少々。

寧々から令和日本の皆様へ

私の夫である羽柴秀吉の先輩で、新しい時代を創る夢へ向かって一緒に戦っていたのに、突然、本能寺で信長さまへ謀反されたのが、明智光秀さまでございます。

その光秀さまを主人公にしたNHK大河ドラマ『麒麟がくる』は、たいへん好評だったようで、何よりでございました。

奥様の熙子(ひろこ)さまも喜ばれているのでないかと思います。本能寺の変の6年前に亡くなっておられますが、たいへん賢い方で、尾張の貧乏侍の娘だった私に、知らないことをたくさん教えてくださいました。

明智家は滅びてしまいましたが、娘の「おたま」さん、ガラシャ夫人という名で知られていますが、その彼女を通じて光秀さまと熙子さまの血は、なんと令和の陛下にまでつながっているとか聞きます。

おそれおおいことですが、素晴らしいことです。そのあたりの詳しい事情は、また、お話しすることがあるでしょう。

私はというと、夫の秀吉がこのところ不人気なのが残念でございます。江戸時代でも『太閤記』は人気でしたし、明治になると帝を大事にした忠臣と誉められ、戦後も出世をめざすサラリーマンの理想だったのです。

▲「最近の秀吉の扱い、ひどくない!?」 イラスト:ウッケツハルコ

NHKの大河ドラマでも、初めて城主になった長浜時代のころなどは、私だけでなく、義母の「なか(のちの大政所)」や義弟の小一郎(のちの秀長)、二人の姉妹など血縁者の情愛や協力で秀吉を支えたことを、ホームドラマ的に描いていただいてます。由緒ある戦国武将の家と違って、普通の家族に近かったのが現代の人たちにも共感を持っていただけるのでしょう。

ところが、秀吉の役は、出世するにつれて、品がなくてがさつで、好色で好戦的で陰謀好きとか、ひどい扱われ方でございます。でも、考えてもみてください。もし、秀吉がそんな人間なら天下を取るなどできるはずがございません。

そういう風潮を残念に思っていたところ、願ったりかなったりの申し込みを受けました。あの世の私が、令和とかいう年号の現世の方のために、私と藤吉郎の一生を振り返って語るという趣向でございます。日記などつけていませんでしたので、記憶があやふやなことも多いですし、やはり、あからさまには、言いにくい話もございまます。

そういう部分は「記憶にない」とか「プライバシーに関わるのでご勘弁いただきたい」 と申し上げることはあるかと思いますので、そのときはお許しくださいませ。

また、どうしてもわかりにくいところや異説があるところは、編集の方が注釈という形で補足してくださるそうです。

普通なら、物語は私が生まれたときのこととか、藤吉郎と祝言を挙げたときから始めるのでしょうが、令和の日本の皆様も『麒麟がくる』をご覧になって、あの本能寺の変と呼ばれる出来事の真相はいかに、ということを知りたいだろうと思います。

光秀さまがご存命のまま消息を絶たれたという噂は、私も聞いておりましたから、そのへんの真実を先に、お話ししようと思います。

そして、そのあと、私が藤吉郎と会ったときのことから物語を始めます。藤吉郎の子どもの頃や会う前のことは、藤吉郎が自分で話していたことや、姑の「なか」などから聞いたことをもとに紹介いたします。

ただ、普通の家でもそうでしょうが、結婚前のことや、ややこしい家庭の事情は妻の私にも話したくないこともあれば、見栄を張っての“たわいない嘘”も混じっていると思いますので、そのあたりは割り引いて聞いていただければと思います。

それから、私の名前は「ね」です。しかし「ね」では文章を読んでいただくときにわかりにくいですし、人によっては「ねね」と呼ばれていた方もおられましたので「ねね」、漢字では「寧々」と書かせていただきます。女優さんの名前のようで、私も気にいっております。

うちの旦那については、どんな風に呼んでいたか申し上げるのも恥ずかしいので、若い頃は「藤吉郎」、長浜城主になってからは「秀吉」というようにしたいと思います。

▲長浜城 出典:PIXTA