約265年にも及んだ江戸幕府の礎を築いた徳川家康。PRという視点で見ても、彼のセンス(時代を見抜く洞察力)と実務面の手腕は並外れていました。家康が手がけた事業のひとつに五街道(東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道)の整備があります。なかでも東海道は今日でも日本の大動脈となっており、「東海道五十三次」として有名ですが、じつは“五十七”の宿が整備されていました。そこに隠されていた徳川家康のPR戦略とは?

※本記事は、殿村美樹:著『すごすぎる!武将たちのPR戦略』(ワニブックス刊)より、一部を抜粋編集したものです。

消えた四つの宿は秀吉が作っていた

1615年、大坂夏の陣によって豊臣家は滅び、徳川家による日本の支配が確定的となると、家康は東海道を終点の京都・三条大橋から大坂・高麗橋まで延伸して伏見・淀・枚方・守口の四つの宿を整備します。これが「東海道は五十七次だった」といわれる根拠ですが、実際には三条大橋よりも西の部分は、東海道と一体のものとして整備されたにもかかわらず、べつの街道として区別されました。

じつは、三条大橋から大坂・高麗橋までの区間は、もともと秀吉が京街道として整備していたルートなのです。つまり、家康は五街道の整備を自分の事業として後世に残したいと考え、自分よりも先に秀吉がすでに整備していた部分を敢えて除外したのです。「秀吉の時代」と「秀吉後の時代」を明確に区分し、自分が天下を統一して征夷大将軍となったことを全国にPRすることが目的だったと考えられます。

わざと縁起の悪い場所を終点に

時代が変わるということは、単にそれまでの統治者だったA氏が去り、B氏が就任するというだけのことではありません。

フランス革命(1789~99年)が成立すると、パリでは街頭の時計台が次々と破壊されたといいます。旧体制で流れていた時間を捨て、新たな時間へ。反体制のヒッピーたちを描いた映画『イージー・ライダー』(1969年/デニス・ホッパー監督)も、主人公がはめていた自分の腕時計を投げ捨てるという象徴的なシーンから始まります。

また、米国との戦争に勝利し、南北統一を成し遂げたベトナムでは、米国の傀儡国家と化していた旧南ベトナムの首都・サイゴンの名称がホーチミン市へと改められました(ホー・チ・ミンは、旧北ベトナムの指導者として米国と戦った政治家の名前)。

さらに、秀吉の時代と自分の時代を明確に区切るために家康が実践したPRは、これだけではありません。東海道五十三次の終点である京都・三条大橋とは、どのような場所であったか。その下を流れる鴨川の河原は、刑場として残酷な処刑や晒し首がおこなわれる場所だったのです。

秀吉の養子で秀頼が誕生する以前には世継ぎとして関白の地位にも就いた豊臣秀次は、その後、強制的に出家させられ高野山で切腹し、三条河原で晒し首にされています。また、関ヶ原の戦いで西軍を決起させた石田三成も六条河原で斬首されたのち、ここで晒し首にされ、有名な盗賊・石川五右衛門が釜茹でにされたのも三条河原でした。

なんとも恐ろしい場所。現代よりも迷信が幅を利かせていた400年前ならば、なおのこと人々は、できるならば近づきたくないと思ったことでしょう。じつは、東海道の五十三次目・大津宿から大坂に向かうには、三条大橋ではなく五条大橋を経由するほうが便利。実際に、東海道が発展した現在の国道一号線は、五条大橋を通っています。