私がいつどこに住んでいたかを予備知識として
信長さまについては、本当は「信長さま」とは当時は言いませんでした。私たちにとっては「お屋形様」などというほうがぴったりきますが、これも、現代の皆様にわかりやすいように、だいたいは信長さまにしておきます。結婚後のことは、時間にそってお話ししたいと思います。
本能寺の変のとき、私は長浜城におりましたが、今回は少し、私の一生でいつどこに住んでいたかを予備知識として説明しておきたいと思います。
私が、秀吉が前線の基地としていた姫路城でなく長浜城に住んでいたのは、明智の熙子さまが丹波亀山城(明治になって伊勢亀山城と紛らわしいので亀岡と改称)でなく、同じ近江の坂本城にお住まいになっていたのと同じ事情です。
結婚したのは清洲ですが、美濃攻略中は小牧山に移り、美濃攻めが終わると岐阜に住みました。そして、浅井攻めが終わるとはじめ小谷城、ついで長浜城に移りました。
しかし、その長浜城は、清洲会議で柴田勝家さまに譲り、天王山の山上に山崎城を修築して移りました。ここには、賤ヶ岳の戦いのあと、大坂城を築くまでおりました。そののち秀吉は関白になったので、京に聚楽第を築いて、私もそちらに引っ越しいたました。
天下統一ののちになると、秀吉は秀次を関白にして聚楽第も渡し、本人は大陸遠征のために肥前の名護屋城に移り、私たちは大阪城に戻りました。京に屋敷がないのも不便なので、伏見宮さまのお屋敷になっていた伏見指月山を買い取らせていただき、そこに瀟洒(しょうしゃ)な城を築きました。
その館を秀吉は修築して住むようになり、私も引っ越しました。この城は文禄の大地震で壊れてしまったので、秀吉は近くの木幡山に豪壮な城を築くことになり、できあがるまで、大坂城に戻りました。
新しい伏見城は、現在は明治天皇の御陵になっております。秀吉がこの城で死んだのは、慶長3年(1598年)8月18日ですが、遺言で私たちは堅固な大坂城西の丸に移りました。しかし、おもり役の前田利家さまが亡くなり、德川家康さまが天下の差配をすることになったので、家康さまに西の丸を譲り、私は京の御所の近くの屋敷に移りました。いま、仙洞御所になっているところでございます。
そして、そのあと、尼にふさわしく、風光明媚で秀吉の墓や豊国神社に近い東山の高台に高台寺を創りその一画に屋敷もつくりました。
大坂落城と豊臣家の滅亡のときは、大坂に行こうとしたのですが阻まれ、西の空が真っ赤になるのをむなしく見ているだけでございました。
※ 隠居所として寧々が住んだ京都新城は、現在の仙洞御所の場所にあった。また高台寺ができたのち、そちらに引っ越したかどうかはわからないが、御所の側の屋敷は維持されていたようである。さらに三本木屋敷というのが同一かも諸説あり。
※ 寧々の本名が「(お)ね」か「ねね」かは議論に決着がついていない。