現在はradikoの普及もあり、以前より幅広い層に聴かれるようになったラジオ。そのラジオに欠かせないのがハガキ職人(現在はメール職人と呼ばれることも多い)の存在だ。その日のテーマやコーナーに合った投稿を続ける「ハガキ職人」。同じラジオネームを何度も聞いたり、違う番組で同じラジオネームを聞いて驚いた経験が、ラジオ好きであれば一度はあると思う。

そんなハガキ職人の生態や現在に迫る「Radio Holic~ラジオとハガキ職人~」。今回は、驚異的な採用率を誇り、番組リスナーやパーソナリティをも震えあがらせた伝説のハガキ職人・ウノTこと、宇野智史さんにインタビュー。

1990年代後半から2000年代前半まで、ラジオをひねれば彼の名前を聞いたし、雑誌を開けば「大阪府・ウノT」の名前を目にしたという人もいるだろう。現在は『髭男爵 山田ルイ53世のルネッサンスラジオ』(文化放送 / Podcast)、『ハナコ・秋山寛貴のレコメン!』(文化放送)などの放送作家として活躍している。

▲Radio Holic~ラジオとハガキ職人~<第1回:ウノT / 宇野智史(放送作家)>

『ハイヤングKYOTO』で初めて読まれました

――そもそもの質問になるんですが、ラジオとの出会いを教えてください。

ウノT 小学4年生の頃に買ってもらったコンポで、阪神戦のラジオ中継を聴いていたのがキッカケです。関西出身なので、関西のFMをいろいろ聴いていましたね。

――ラジオに投稿をするようになったキッカケは?

ウノT 『めちゃ×2イケてるッ!』(フジテレビ系)が始まった頃、木曜夜中1時から『ナインティナインのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)が放送されているのを知って聴き始めました。試しにハガキを1枚書いてみたんですけど、読まれなかったですね。

僕がオールナイトニッポンを聴いていた局はKBS京都なんですけど、23時から1時までは『ハイヤングKYOTO』という番組で、TKOさんが木曜パーソナリティをされていたんですよ。ナイナイさんの前に、ちょっと早めにラジオをつけて聴いてみたら面白くて……。お笑いは好きだったんですけど、まだTKOさんのことをはっきり認識していないくらいでした。

中学2〜3年くらいのときに、ハガキを3枚送ったら3枚とも読まれました。初めて自分のラジオネームが読まれたときは、ビリビリとした感覚がありましたね。それから、宝くじを買うような感覚でハガキを送りました。のちに、ナイナイさんの番組にも採用されました。「矢部浩之のさす!」のコーナーに送って、何度か読まれましたね。

――投稿したネタを読まれるって、どんな気持ちでしたか?

ウノT クラスの端っこにいたとしても「俺はナイナイさんにもロンブーさんにもハガキを読まれたことあるぞ」と密かに思っていました。現実世界では関係ないことなんですけど、モチベーションになっていましたね。

それからは『COWCOWの牛牛ブーブー』(ラジオ大阪)、『誠のサイキック青年団』(ABCラジオ)、『T.M.Revolution西川貴教のオールナイトニッポン Music Revolution』、『松村邦洋のオールナイトニッポン』など……聴く番組も増えていきました。

ケンコバに言われた「はよ、作家になれ!」

――ハガキ投稿にハマったのはいつ頃ですか?

ウノT 大学生になると、ラジオだけじゃなくて、雑誌まで手を広げたんです。投稿のコーナーがある『週刊ベースボール』(ベースボール・マガジン社)、『週刊ゴング』(日本スポーツ出版社)、『パチンコ必勝ガイド』(ガイドワークス)、『週刊SPA!』(扶桑社)、ほかにも釣りの雑誌、競馬の雑誌とか……(笑)。当時、雑誌は採用されたら賞金が出ていたので、ありがたかったですね。

麒麟さんのラジオにも送っていたんですけど、作家になったあと、川島(明)さんにお会いしたら「ハガキ中毒者だ」 と言われました。投稿があるところを開いたら、全部ウノTの名前があったって。

――(笑)。認知されるのはうれしいですね。

ウノT ラジオの放送中、ケンドーコバヤシさんにハガキを読まれたあと「コイツ、なんぼほど送ってくんねん!」「はよ、作家になれ!」と言われたのがうれしかったです。ハガキ職人はそういうコメントを聴き逃さないので、その部分を何度も聴いちゃうみたいなことはありました。

――どれくらいハガキを送っていたんですか?

ウノT 後半はメールになっていましたが、たとえば「ますだおかださんのラジオのこのコーナーは30通、次のコーナーは短いから40通」、「この雑誌は短い川柳だから50通送ろう」とか、ノルマを決めて送っていました。いま考えたらすごい迷惑なんですけどね。いざ自分が選ぶ側になると「厳選して10でいいよ」と思います(笑)。