今年の東京オリンピクの開会式で王貞治氏、松井秀喜氏とともに聖火ランナーを務めたことでも話題になった長嶋茂雄氏。長嶋が「ミスタープロ野球」と呼ばれる理由を、現役時代に対戦した江夏豊氏がマウンド上での記憶から解説する。

※本記事は、江夏豊:著『強打者』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

憧れの「ミスター」との初対戦

長島茂雄さんは2021年現在85歳。「わが巨人軍は永久に不滅です」の、けだし名言を残して現役を引退したのが1974年だから、もう47年も前になる。60歳以上の読者でないと実際のプレーは覚えていないかもしれない。 

その昔、海のものとも山のものともわからない「職業野球」(1936年発足)は、異端視された時代があった。花形の東京六大学野球の「本塁打記録8本」を引っ提げて、1958年にプロ入りしたのが長嶋さん。東京六大学の人気を、そのままプロに移行させてしまった。 

「打ってくれと願ったときに打ってくれる」「やればやっただけ成果が出る」――戦後 の日本の高度経済成長を、国民は華やかな長嶋さんに重ね合わせた。長嶋さんは日本復 興の象徴的存在だったのだ。

 長嶋さんがプロ入りした年、私は10歳、小学4年生。やはり憧れの存在だった。

さて、プロ1年目の年、先発の村山実さんが血行障害で突然投げられなくなった試合。急きょ、私が救援のマウンドに立ったのが、巨人戦初登板だった。

「4番・長嶋茂雄」のアナウンス――(おお、これが長嶋茂雄か)。2ストライクに追い込んだのに、ものの見ごとに左翼線二塁打。二塁ベースに滑り込んで立ち上がり、ユニフォームのほこりをパッパッと払う。私の顔を一瞥さえしない。いくら私が日の出の勢いの投手だったとしても、10年第一線でやってきた矜持。これぞプロ。(カッコいい)。

私は巨人ファンではないけれど、長嶋ファンになってしまった。 

絶対打てないコースを打ち、失投は尻もちついて空振り

スイングスピードはケタ違い。普通だったら絶対打てないようなコースに決まっても簡単に打つ。体は左翼に向かって、打球は右翼へ飛ばすという特技を持っている人だった。逆に、投げた瞬間「しまった」という甘い球を、ヘルメットを飛ばして尻もちをついて空振りしている。  

長嶋さんから三振を奪えば、それはそれでうれしいけれど、あとまで残らない。逆に打たれても、なぜか悔しくない。喪失感がない。通算対戦成績を見ると、結構抑えているし、 結構打たれている。でも印象にない。そういう意味で不思議な打者だった。  

私は試合後に「なんで、あのとき打たれなかったのか」「なんで、あの球を振ってこなかったのか」の『ピッチングノート』のようなものをつけていたのだが、長嶋さんの場合、正直に言って分析できなかった。言うなれば長嶋さんは『来た球を打てる天才』だった。

一方、ムキになって戦った人もいた。ご存知、村山実さん(阪神)。 1959年天覧試合のサヨナラ本塁打。「あれはファウルや」。あのフレーズを、私は10回や20回どころではない。100回以上は聞いている(笑)。打球は完全に入っていた。以降、村山さんは長嶋さんにムキになって投げる。村山さんは長嶋さんから通算1500三振目と通算2000三振目を奪った。長嶋さんもまた、ムキになって振っていた。 

長嶋さんは、初代「ミスター・タイガース」の藤村富美男さんのファンだったらしい。 2代目ミスター・タイガース村山さんのライバルは「ミスター・ジャイアンツ」。そして巨人の枠を飛び越えて「ミスター・プロ野球」。その後、「ミスター」と言えば、長嶋さんのことを指すようになった。