プロ野球史に数々の伝説を残してきた江夏豊氏。現役時代はもちろん、引退後も積極的に現場に赴き、常にプロ野球の「今」を見続けてきた。半世紀以上におよぶ記憶の中から、現役時代に目にした偉大な先輩投手2人のトレーニング法やマウンド上での姿勢を語る。

※本記事は、江夏豊:著『名投手 -江夏が選ぶ伝説の21人-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

米田哲也:村田兆治が手本にした「ヨネボール」

米田哲也さんは75年の途中に阪神に移籍してきて、22試合に投げて8勝を挙げている。75年は「速球王」と呼ばれた山口高志が、ドラフト1位で阪急に入団し「登板機会が減るから」という理由で、自ら移籍希望を阪急に申し出たそうだ(山口は、32試合登板22先発18完投203投球回、12勝13敗1セーブで新人王)。

▲米田哲也氏(1956年1月10日) 出典:『ベースボールマガジン』2002年秋季号(ウィキメディア・コモンズ)

私は75年を最後に南海に移籍したので、わずか半年だったが、11歳上の米田さんは私をとても可愛がってくれて、毎日行動をともにした。

米田さんは通算949試合登板。1002試合登板した岩瀬仁紀君(中日)に抜かれるまで、実に40年間もの間「日本最多登板投手」として君臨した。

通算350勝にしても右投手でナンバー1。そのタフネスぶりから『ガソリンタンク』と呼ばれたのも、むべなるかな。

「セ・リーグの金田、パ・リーグの米田」「左(投手)の金田、右の米田」だった。

米田さんは、金田正一さん、小山正明さん、鈴木啓示さんとともに「走り込みで鍛えた下半身主導で投げる」タイプだった。しかも、米田さんは、最近盛んなウエイトトレーニングには苦言を呈していた。

阪神には、南海から移籍してきた合田栄蔵さんという投手がいて「コンディションづくり」「トレーニング方法」について詳しかった。

当時は、グラウンドの右翼ポールから左翼ポールまで走る練習法が多かった。

「長距離を何本も走るのではなく、シーズンに入ったら10メートル、20メートルの短距離ダッシュを何本かやって、体のキレを出しなさい」

 

「完投したら完全休養ではなく、柔軟体操をして体の張りを取りなさい」

米田さんも同じようなことを言っていて、よくコンビを組んでクールダウンをしたものだ。

米田さんの特殊球はフォークボールで、別名「ヨネボール」と呼ばれた。村田兆治(ロッテ)が阪急との試合のとき、ダグアウトの中でボールを握って鍛錬する米田さんを見て、握りや投げかたを盗み取ったという。

通算350勝も挙げている米田さんだが、同学年の稲尾和久さん(西鉄=通算276勝。阪急戦通算60勝17敗)は苦手で、ダブルヘッダーで2つとも負けることがたびたびあって「ライバルというより、悪魔のような存在だった」らしい(笑)。

米田さんは85年に阪神コーチに就任し、中西清起君をストッパーに推薦し、阪神は日本一に輝いた。