プロ野球史に数々の伝説を残してきた江夏豊氏。現役時代はもちろん、引退後も積極的に現場に赴き、常にプロ野球の「今」を見続けてきた。半世紀以上におよぶ記憶の中から、同時代に活躍した数多くいる投手のうち「勝ちに恵まれなかった」200勝投手をピックアップしてもらった。

※本記事は、江夏豊:著『名投手 -江夏が選ぶ伝説の21人-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

梶本隆夫:唯一の「負け越し」200勝投手

200勝投手26人の中で唯一の「負け越し」投手であった。高卒1年目の54年にカジさん(梶本隆夫)は、いきなり20勝を挙げたが、その年は宅和本司さん(門司東高→南海)が26勝を挙げて、新人王に選ばれなかった。

▲梶本隆夫氏(1954年) 出典:『野球狂スタヂアム』(ウィキメディア・コモンズ)

プロ3年目の56年には28勝を挙げたが、この年は三浦方義さん(大映)が29勝を挙げ、カジさんは「最多勝」のタイトルを逃した。

通算で1つ負け越しなのだが、現役最終73年に当時の西本幸雄監督がこう言った。

「カジ、せめて勝ちと負けを同じにしとこうか」

「いえ、途中から投げて、他人の勝ち星を奪うようなことは勘弁してください。勝った負けたではなく、自分にとっては、ピッチングに内容が伴っていたかどうかのほうが大事なんです」

人を思いやるから誰からも慕われた。同じ左腕、同じ関西ということで、私も「おー、豊、豊」と、よく声を掛けていただいた。

米田哲也さんも「兄貴(梶本)のためなら、オレは苦労を厭わないよ」と言っていた。

阪急が長い間、勝率5割に届かない『灰色球団』と揶揄された時代、米田さんと梶本さんは「ヨネ・カジ」コンビと呼ばれて、チームの屋台骨を支えたのだ。

とにかく阪急の本拠地の西宮球場は、グラウンドに出ている選手・関係者の合計より、観客席のファンのほうが少ないくらい閑古鳥が鳴いていた。

カジさんは186センチの長身から、クロスファイヤーで速いストレートと緩いパームボールをほおった。「3者連続3球三振」を2度もやっているのはカジさんだけだ。四球も被本塁打もそれなりに多かったが、867試合で投球回は4000を超えている。カジさんにしても米田さんにしても、弱い阪急でそれぞれ通算254勝、通算350勝(阪神・近鉄で計22勝)を挙げているのだから、称賛に値する。

その後、長池徳士さん(撫養高→法大→阪急66年ドラフト1位)が入って、阪急は打線が投手陣を援護できるようになった。私がプロ入りした67年に阪急が球団創設32年目で初優勝を遂げて、プロ14年目のカジさんは嬉しかったらしい。