防衛大学校の全学生に女子学生が占める割合はわずか12%、まだまだ世間的に認知度が低いとされる「防大女子」。一般の女子大生とはまったく違う世界に飛び込んだ彼女たちの生活、苦悩や喜びなどを防大OGや女性自衛官に取材し、自らも防大女子だった松田小牧氏が実体験を交えながら、特殊な環境で働く女性たちの本音、現在の問題点や課題をあぶり出す。

▲防衛大学校本部庁舎で国旗を降下する学生 [松田氏所有写真]

防大の学生だって「女子」なのだ!

「防衛大学校(以下、防大)の学生」と聞いて、どういった姿を思い浮かべるだろうか。

多くの人が想像するのはおそらく、屈強な若い男性の姿ではないかと思う。だが、防大は男女共学であり、全学生の約1割を女子学生が占める。かつて私もその一員であったがゆえに、防大の女子学生の認知度の低さは身をもって知っている。

防大女子のイメージが湧きづらいのは、その数の圧倒的少なさにも起因する。1992年に女子が初めて入校して以降、2021年に至るまでの30年間に入校した女子の総数は約1300人。

ちなみに“女子が少ない”と言われている東大には、2021年5月の時点で2768人の女子学生が在籍している(約2割)。つまり防大女子は、東大女子よりよほど数が少ないうえ、卒業した者の多くがそのまま自衛隊に進むため、社会との接点は極めて限られる。

次に「防大の女子学生」のイメージはどうだろうか。気が強そう、運動ができそう、女らしくなさそう……。確かにあながち間違いではない。だが、それだけが全てではない。彼女たちだって「女子」なのだ。

▲防衛大学校卒業式で答辞を読む学生 [松田氏所有写真]

防衛大学校の歴史・組織・設置場所の意図

はじめに、防衛大学校とはどういった組織なのかを簡単に説明しておこう。

建学の目的を「将来陸上・海上・航空各自衛隊の幹部自衛官となるべき者の教育訓練をつかさどるとともにそれらに必要な研究を行う」と謳う防衛大学校は、1952年に保安大学校として神奈川県横須賀市に設置。

1954年に保安隊から自衛隊と改編されたのに伴い、防衛大学校と改称され翌年に同市小原台の現在の地に移った。幕末にペリーが来航した場所にほど近い場所で、当時、京浜急行がゴルフ場を作っていたところ、初代学校長が開校を頼み込んだという。 

一般的な大学と異なり、文部科学省ではなく防衛省所管。英語では「university」ではなく「academy」、学生も「student」ではなく「cadet(士官候補生)」だ。おそらく、ほとんどの日本人が人生でそう使うことのない英単語だろう。

防大生とて自分が「cadet」だと名乗る機会はそうはない。私自身で言うと、おそらく横須賀の米軍基地に所属する米軍人にナンパされたとき「I'm NAVY(俺は海軍だよ)」の返しとして「I'm cadet」と答え、彼に「Wow……」と肩をすくめられた記憶しかない。

学校の場所は、京浜急行馬堀海岸駅からバスに乗ること数分、坂道を登ったところにある。校内からは、場所にもよるが東京湾を望むこともできる。

『防衛大学校五十年史』によると、同地が選ばれたのは

  1. 東京またはその近郊
  2. 海に接していて海上訓練に適している
  3. 十万坪の土地が確保でき、将来拡張の可能性がある

という理由によるという。

正門には警備員が常駐し、関係者以外の立ち入りはできない。なお、同校が置かれた地名から、しばしば防大は「小原台」とも呼ばれる。

防大の開校に当たっては、戦前・戦中の反省が大いに生かされた。まず、戦中は陸軍と海軍がバラバラだったことから、全ての要員が1ヵ所で学べる環境が望まれた。海外では、陸海空の士官学校は別々に設置されるのが普通であり、防大のように陸海空の士官候補生が一堂に介して学ぶ環境は極めて珍しい。

精神主義が軍部の暴走を招いたという反省を受けて、科学的思考を重視したことなどから、当初は理系学部のみが設置された。後に文系学部もつくられたが、今も理工系学科が11に人文系学科が3つと、学生の8割は理工系だ。

私が卒業した人間文化学科は、2000年に誕生した最も新しい学科となっている。開校当初は学位が授与されなかったが、1992年の卒業生から学位授与機構の審査を経て、学位が認められるようになった。

また、これらいわゆる「本科」の上には「研究科」も設置されている。研究科とはいわゆる大学院だが、防大は“大学”ではないため大学院とは銘打てず、研究科となった。研究科には卒業生以外、自衛官だけではなく一般からの入校も許されている。ただし、一般的には「防大」というと本科のみを指すことが多い。

防大生の身分は、特別職国家公務員たる自衛隊員。防大生は階級がない(武官ではない)ため、1佐・2尉のように階級のある“自衛官”ではなく「自衛隊員」となる。