江戸の庶民から大坂を遠ざけることで徳川政権を確立

そして、五条大橋といえば、古くから清水寺参拝の道としても親しまれ、源義経と弁慶が出会った優美な伝説の舞台でもある。江戸から東海道を旅して京都にやってきた人たちも、終点が五条大橋だったならば大いに観光気分を満喫できたことでしょう。

ちなみに東海道五十三次から西、秀吉が整備した京街道は、京都と伏見を結ぶ鳥羽街道と、伏見から五条大橋までの伏見街道というふたつのルートによって成り立っていました。

つまり、本来は三条大橋を通るルートなど存在していなかった。家康は五条大橋を通る従来のルートをわざわざ曲げて東海道を整備したことになりますが、では、いったいなぜ、三条大橋を東海道の終点とする必要があったのか。ここにも家康の遠謀深慮が隠されています。

家康は、一刻もはやく人々の脳裡から秀吉の残像を消し去ることを考えていたのだと思います。そこで、誰もが「できれば渡りたくない」と考える三条大橋を東海道五十三次の終点とし、そこから先、大阪までのルートに脚を踏み入れることを妨げようとしたのでしょう。大坂は、言うまでもなく秀吉が居城を置いていた土地です。

自分の時代を確立するために、ここまでやる。自己PRは、やるのなら緻密に、徹底してやらなければ意味がありません。中途半端な自己PRは「目立ちたがり屋」という印象を周囲の人々に与えるだけの結果に終わるでしょう。ただ、それにしても本当ならば五十七次だった東海道が五十三次になってしまったことは、少し残念な気もします。