何度も男色で狼藉をはたらいていた板垣退助
四国にあった土佐は、南に太平洋があり、ジョン万次郎や坂本龍馬を輩出するような開放的な面を持ちながら、北には四国山地が囲むので、昔から流刑地であった歴史もある閉鎖的な側面も持っていました。そして、太平洋からはクジラがやって来ます。このクジラを獲るためのエサが子犬でした。
そのような環境では、徳川綱吉が出した「生類憐れみの令」もすぐに破られて、大々的な犬狩りが行われました。その名残が闘犬です。
土佐では、死の穢れを説く仏教は普及しにくくなりました。そして事実、文化庁の『宗教年鑑 平成26年版』(文化庁/2015年)を見ても、現代でも高知県における仏教徒は西日本では断トツで低く、全国で見ても下位にあります。
そうなるとどういうことが起こるのかと言うと、仏教の影響が薄い土佐においては、来世を共にしようとは思いにくいので心中事件が少なくなります。そして現世のことは現世で解決しようとなりますから、もし解決できないとわかると、自分の身を捨ててでも相手を傷つけようとする、つまり刃傷事件が多くなるわけです。
このような環境での男色がどうなるかについて、宮武外骨が『美少年論』に書いています。
若し強いてこれを排斥し、男色の接近を避ける者があると、同儕相集つてその家に押しかけて行ってその家の子弟をつかまえて強いてこれを犯す。隣室に父母兄弟がいてもこれを顧慮しない。父母兄弟また甘んじて彼らの横恣に委して顧みないのである
[「宮武外骨の『美少年論』」]
要するに、男色を嫌がる者がいたら、仲間で集まって嫌がる者の家に押しかけて、その家で捕まえて犯すのです。家に押しかけるのですから、そこには犯されている少年の家族がいますが、隣室で息子が犯されていても、家族は一切手出しできないのです。
しかし、少年のなかには訴える者もいます。こうしたとき、判決文には女色の場合は「柔弱の交わり」と書かれ、男色の場合は「狼藉」と書かれました。そして『御家中変儀』という土佐藩の刑罰記録を見ると、柔弱に比べれば狼藉の方が多く記録されています。そして、自由民権運動の板垣退助も、何度も狼藉を働いて処罰されています[平尾道雄『平尾道雄選集 第二巻 土佐・庶民史話』高知新聞社/1979年]。
こうした狼藉が多発する理由とすれば、土佐では遊廓は禁止され、陰間茶屋も存在しなかったこともあります。ちなみに薩摩の場合は、江戸の薩摩藩邸近くの芝神明(現在の東京タワー辺り)の陰間茶屋をお得意様にしていました。こうしたところが、西郷の心中未遂と合わせて、薩摩と土佐の男色の違いとなるでしょう。
薩摩と土佐に並んで倒幕の中心となる長州には、男色の記録はほとんどありませんが、長州における精神的支柱となった吉田松陰の松下村塾で、高杉晋作と並んで双璧と呼ばれた久坂玄瑞は、日記の中で土佐の男色について書いていますから、強力な軍隊育成のために、玄瑞は土佐の男色を見習おうとしていたのかも知れません。
※本記事は、山口志穂:著『オカマの日本史』(ビジネス社:刊)より一部を抜粋編集したものです。