戦国武将として有名な武田信玄が、家臣の源助に浮気をしていない証明のために送った手紙が未だに残っている、というエピソードはテレビなどでも紹介されています。じつは、独眼竜として人気のある伊達政宗にも、後世に知られたくなかったであろう恥ずかしい手紙が残っているというのです。自身を「オカマ」だと公言する山口志穂氏が、日本史の新たな側面を解き明かします!

伊達政宗の恥ずかしい手紙の中身は…!?

伊達政宗の男色に関しては、武田信玄並みの恥ずかしい手紙が仙台市博物館に遺されています。

▲伊達政宗肖像画(土佐光貞筆、東福寺・霊源院所蔵) 出典:ウィキメディア・コモンズ

政宗が50歳ごろですから、家康が亡くなってからそれほど年月の経たない頃のことです。小姓の只野作十郎の浮気を疑って、酒の席でなじってしまいます。しかし、疑われた作十郎は自分の腕を刀で突いて、その血で身の潔白を証明する起請文を政宗に送ります。政宗の手紙は、この起請文を読んで恥じたことで、自らも血判して謝罪したものです。

まずは「酒の上でのことだったので、全く覚えていません」と始まり「とある乞食坊主が『作十郎が浮気している』と密告してきたので『あり得ない』と思いながらも、少しお前をいじめてやろうと思ったのだ」と続きます。

我等ゐあはせ候はゞ、御わきざしにもすがり申すべき物を、是非に及ばず候。せめて我等もゆびをきり申し候事か、さらずばもゝかうでをもつき候て、此御れいは申し候はでかなはぬ事に候へ共、はやまごゝをもち申し候としばへに御ざ候へば、人ぐちめいわく、ぎやうずいなどのとき、こしやう共にもみられ申し候へば、とし此ににあはぬ事を仕候といわれ申し候へば、子どもまでのきづと存じ候て、心ばかりにてうちくらし申し候。
[佐藤憲一『伊達政宗の手紙』新潮社、1995年]

政宗の弁明は「もし私がその場に居合わせていたら、貴方の脇差にしがみついてでも止めたのに、仕方ないことです。せめて、私も指を切ったり股か腕を切ってでもお詫びしたいんですが、噂になっても困るし、行水のときに小姓に見られでもしたら『政宗様、あの歳でまだヤってんの、クスクス……』と陰口叩たたかれたりして、子孫にまで迷惑掛かっちゃうので、控えています」と続くのです。

さて、政宗がお詫びの印として、指や股や腕を切ったことを小姓に見られることを理由にためらっているのは、政宗の言い訳なのでしょうか?

それはあり得ないでしょう。政宗自身、若いときから戦場で全身に傷をつけているわけですから、傷をつけるのを恐れているということはまずないでしょう、ですから「小姓に見られたら子孫にまで迷惑を掛ける」というのは、噓偽りはないと思われます。

では、政宗が言っている、お詫びの印として指や股や腕を切る行為は、何を表しているのでしょうか?

井原西鶴の『男色大鑑』巻二「雪中の時鳥」にはこうあります。

嶋村藤内はあやまって、いろいろ話し、「この上は何の二心があってたまるか」と左右の小指を喰い切り、二人に渡し、情けと情けをひとつに合わせる。また珍しい衆道の取りむすびであることよ。

要は、藤内は自分に二心がない証明のために、左右の小指を喰いちぎって愛の誓いをしているわけです。

さらに、男色の愛の誓いの証明としては、藤本箕山(ふじもときざん)の『色道大鑑』には、刺青や指切りや爪放しといった行為の他に、“貫肉(かんにく)”と言って腕や股などを傷つけることも含まれています。どれも現代人には理解しがたいかもしれませんが、今でも愛の証として恋人同士がタトゥーを入れるということもありますので、それと同じ心理だと思えばわかりやすいかも知れません。[柴山肇『江戸男色考 若衆篇』批評社、1993年]

つまり、政宗の言っている行為とは貫肉のことであり、衆道関係を結んだ者として、二心がない証であるということなのです。