自身を「オカマ」だと公言する山口志穂氏は、日本の歴史は“男色の歴史”であると語ります。戦国時代にも男色嗜好は幅広く好まれていましたが、豊臣秀吉にその気はあまりなかったようです。それでは関ヶ原の戦いで、徳川家康と対決した石田三成はどうだったのでしょうか?

大谷吉継に頭を叩かれても「ありがとう」

秀吉の死後、豊臣政権の五大老筆頭で256万石の徳川家康と対立したのが、豊臣政権の五奉行で近江佐和山(滋賀県)19万石の石田三成です。

▲石田三成 出典:ウィキメディア・コモンズ

三成のエピソードで有名なのが、秀吉との出会いのときに、温度の違う3杯のお茶を出して秀吉を感心させたという「三献茶」で、『武将感状記』に書いてあります。

これによって秀吉に仕えるようになった三成は、一般的には文官官僚のイメージがあります。しかし『一柳家記(ひとつやなぎかき)』によると、秀吉が柴田勝家を破った賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは、三成や大谷吉継が先鋒を務めました。だから、この戦いでの一番手柄は、有名な加藤清正や福島正則などの賤ヶ岳の七本槍ではなく、当然ながら三成と吉継に与えられています。

秀吉の出自については諸説ありますが、いずれにしても低い身分から出世したことだけは間違いありませんから、秀吉には先祖代々の家臣などいるわけがありません。

だからこそ、尾張時代には清正や正則を登用し、長浜城主時代には三成や吉継を登用したわけで、彼らが優秀で実力がないはずがないのです。

そして、秀吉が肉体的な男色(不浄愛)を必要としないのは、こうした経緯があるからです。もちろん、秀吉が庶民出身であることも、男色の嗜みがなかった理由としてはあるとは思いますが。ただし、彼ら「秀吉子飼いの家臣たち」は、秀吉に対する浄愛は間違いなく感じていたはずです。

そして浄愛と言えば、三成と吉継には有名なエピソードがあります。当時の茶道には、回し飲みという作法がありました。大坂城での茶会で秀吉が直々に点てたお茶に、ハンセン病を患っていた吉継の顔の膿(鼻水とも)が落ち、周囲が敬遠するなかで、三成だけがすべて飲み干し、これを見た吉継が「オレの命を三成に捧げよう!」と誓ったという話です。しかし、このエピソードに関しては出典元さえわからないくらいですので、真偽のほどははっきりしません。ただし『武功雑記』には、このような記事もあります。

石田治部少輔を度々大谷刑部少輔しかり、又は頭をはり候。石田大谷に恋慕して、知音になり候。それより頭をはらるゝも、忝なしと云やうにもてなし候由。

訳せば「吉継は、三成をたびたび叱り、頭を叩いた。三成は吉継に恋をして愛人になっていたので、頭を叩かれても『ありがとう!』と言っていた」となります。これが事実なら、三成にはMっ気があったのかも……。

みなもと太郎先生に『風雲児たち』(ワイド版全20巻、リイド社、2002年~2004年)という歴史ギャグマンガがありますが、そのなかに三成を吉継がハリセンでたびたび叩くシーンがあります。みなもと先生は、おそらくこのエピソードから採用されたのでしょう。

それはともかく、秀吉の死後に三成は、関ヶ原の戦いで家康と対決しますが、その三成と対立して家康に味方した清正や正則なども、秀吉への浄愛はあったはずです。当然、三成や吉継にも秀吉への浄愛があったはずです。つまり、関ヶ原の戦いは「秀吉に対する浄愛の戦いであった」と言えます。

そして、その関ヶ原を東西両軍互角どころか、むしろ開戦前には西軍有利としたのは、吉継の功績が大とも言われています。

▲関ヶ原合戦図屏風 出典:ウィキメディア・コモンズ

関ヶ原においては、毛利の日和見、小早川秀秋の裏切りという誤算があり、東軍の勝利に終わりましたが、三成が家康に互角以上の戦いができた裏には、三成と吉継の浄愛があったと言って良いでしょう。