ストイックな女性蔑視から生まれた薩摩の男色

薩摩の武士は「薩摩隼人」と呼ばれます。なぜ薩摩隼人と呼ばれるのかと言うと、『古事記』には、天孫ニニギノミコトとコノハナノサクヤビメの間に生まれた海幸彦(ホデリ)と山幸彦(ホオリ)の兄弟が争って山幸彦が勝ったとあります。そして敗れた海幸彦は「僕は今より後、汝命の昼夜の守護人となりて仕え奉らむ」とあります[次田昌幸『古事記(上)全訳注』講談社/1977年]

山幸彦の孫が初代神武天皇であり、海幸彦が隼人族の祖とされますので、要するに、隼人族は皇室の警護を任せられていたとなりますから、当然、隼人族は勇猛果敢な人たちであったわけです。そして、薩摩の武士は隼人族のように勇猛果敢として、薩摩隼人と呼ばれるようになるのです。

こうした勇猛果敢な薩摩隼人を率いたのが島津家で、鎌倉時代から明治維新まで、その大部分の期間を薩摩の地に根を下ろし続けました。薩摩隼人の強さは、戦国時代には九州統一目前までいったことや、唐入り(いわゆる朝鮮出兵)での活躍、そして関ヶ原での島津の退き口でも証明されています。

▲島津貴久像 出典:尚古集成館蔵(ウィキメディア・コモンズ)

島津家は、いかにして勇猛果敢な薩摩隼人を統率したのでしょうか? それは15代当主・島津貴久の作った外城制(地頭・衆中制)にありました。外城制とは、領内の各地に上級武士(地頭)を置き、その下に中級下級武士(衆中)を配置し、そしていざというときには、地頭の命令で、平時には半農半士の衆中たちが集結して戦闘員として、事に当たるというシステムでした。

薩摩は関ヶ原での敗戦を経ても、巧みな外交術で領土の削減もなく江戸時代を迎えます。しかし、1615年の一国一城令のあとも外城制をやめることができませんでした。なぜかと言えば、他藩は武士の比率が5~7パーセントだったのに対し、薩摩は武士の比率が30パーセント近くを占めていたことで、一つの城下町に武士を丸抱えできないという事情があったからです。その後、徐々に地頭たちは鹿児島城下に移り、衆中は郷中と呼ばれるようになります。

武士の子弟のことを薩摩では兵児(へこ)と言い、郷中のなかで数百人単位で作られた青少年の防衛組織を兵児組(へこぐみ)と呼びました。小説やドラマでもお馴染みの「郷中教育」は、こうした環境のなかで、二才(にせ)と呼ばれる元服して結婚するまでの14、5歳~24、5歳の年長者が、稚児と呼ばれる6、7歳~14、5歳の元服前の年少者たちを教育する青少年による教育機関でした。

先程、外城制をやめることができない理由を、薩摩は武士の比率が極端に高かったからと言いましたが、それと共に、肥後(熊本県)の加藤清正が薩摩に“にらみを効かせていた”という事情もありました。そうすると、当然、その国境の兵児組の郷中教育は厳しさを増すわけです。

郷中教育においては、とんでもないスパルタ教育が行われていました。それに加えて薩摩隼人には、極度の女性忌避がありました。『薩藩士風考』にはこうあります。

路上女子ニ逢ハバ穢ノ身ニ及バンコトヲ恐レテ途ヲ避ケテ通ル

「道を歩いていて女性に会っただけで、女性は穢れているからと避けて通っていた」と言っているのです。

では、そんな女性を少しでも見てしまうとどうなるか? 平戸藩の9代藩主・松浦静山の『甲子夜話』には「道ですれ違った女性を少しでも盗み見ただけで、自殺を強要された」とあります。そして、それに同情しただけでも、その者を夜中に首の骨を折って殺したとか……。そうなるとどういうことが起こるのか? 『甲子夜話』にはこうあります。

婦女を禁ずるは斯くの如ごとしといえども、男色を求め、美少年を随伴し、殆ど主人の如し

スパルタ教育に加えて、極端に女性を忌避するのですから、その性のはけ口は、男色に向けられるのは当然でしょう。しかも、極度の女性忌避になれば、それは平安時代にお坊さんたちが稚児を神格化させた「稚児信仰」と同様になることも、また然りであるわけです。だからこそ薩摩隼人たちは、美少年をご主人様であるかのように敬ったのだと言えます。それはさらにエスカレートしたようで、『薩摩見聞記』にはこうあります。

昔時此風の盛んこれなるや、美少年を呼ぶに稚児様を以てし、其出る時は或は美しき振袖を着し数多の兵児二才之を護衛し傍よりは傘をさし掛け、夜は其門に立て寝ずの番を為す者あるに至る

もうここまでくれば、これは新たな薩摩隼人たちによる稚児信仰であると断言しても差し支えないでしょう。薩摩の男色は、郷中教育でのストイックな環境と、女性蔑視と言っても過言ではない女性忌避思想から生まれたのです。

▲入来麓武家屋敷 出典:ブルーインパルス / PIXTA(ピクスタ)