ソ連が解体され、民主主義国家として再出発した中・東欧諸国は、ソ連の侵略と占領によって受けた被害を忘れてはいなかった。占領・圧政に抵抗した歴史を次世代に残すことで、自国の自由と民主化を守る原動力になると考えているからだ。そして日本人である我々も、その歴史をしっかりと認識しておく必要がある。苦難と抵抗の歴史とはどのようなものか、評論家・情報史学研究家の江崎道朗氏が解説する。

ポーランドの観光ガイドがラテン語で話す理由

1991年のソ連邦解体に伴い、民主主義国家として再出発した中・東欧諸国は、ソ連の侵略と占領によって受けた被害を忘れませんでした。

なにしろ、自分の父親や母親、そして兄弟を、ソ連軍とその後の共産党の秘密警察によって殺されたり、拷問されたりしているわけですから、その恨みが簡単に消えるはずもありません。

2018年にポーランドを取材で訪れた際のことです。1970年代後半、共産党政権に反対して民主化運動をしていた父親が、ある日突然、警察に逮捕され死体で発見された、という体験を持つ通訳の女性と会ったことがあります。彼女は、父親の無念を受け継ぐためにポーランドの民主化運動に携わり、海外情報に比較的容易にアクセスできる外国人向けのガイドになったと言っていました。

彼女は母国ポーランド語のほかに、ドイツ語、英語、フランス語、日本語、ラテン語ができる、と言っていました。「なぜラテン語を?」という質問に対して「共産党時代のポーランドは、外国人観光客にも監視がついていて、ガイドといえども自由に話ができないが、ラテン語で会話をすれば、その監視に悟られずに外国の要人たちと情報交換ができるからだ」と答えてくれました。

ポーランドを民主化し、ソ連から独立するために、これだけの数の語学を習得し、海外の情報を入手できる力を得ることが必要だったわけです。

▲ポーランドの観光ガイドがラテン語で話す理由 イメージ:uspmen / PIXTA

人生をかけて祖国の民主化、独立を取り戻そうとしてきた彼ら、彼女らにとって、独立を取り戻したことは戦いの終わりを意味したわけではありませんでした。

いつまた独立を失い、民主主義が破壊されるかわからないことを前提に、ソ連による侵略と、共産党政権による占領・圧政に抵抗した歴史を次の世代に伝えることが、自国の自由と民主化を守る原動力になると考えているのです。

「銃で撃たれる前に靴を脱いでおけ」

では、その苦難と抵抗の歴史とはどのようなものか、ハンガリーを例に示しましょう。

第一次世界大戦のオーストリア帝国の敗戦に伴い、1920年に成立したハンガリー王国は、台頭するナチス・ドイツと連携して領土「回復」を目指し、第二次世界大戦当初は、日独伊の枢軸国側でした。

ところがドイツが劣勢となり、1944年にソ連軍が国境に迫ったことから、連合国側と停戦を結ぼうとします。

しかし親独派の矢十字党(ナチスと同じような国家社会主義政党)が政権を握り、ハンガリーは、ナチス・ドイツの影響下に入ったのです。

▲矢十字党党旗 出典:MesserWoland(ウィキメディア・コモンズ)

この矢十字党は、反ユダヤの全体主義団体で、ブダペストのユダヤ人を暴行と虐殺によって、恐怖のどん底に突き落としました。8,000人近いユダヤ人がハンガリーを追い出され、収容所が待ち受けるオーストリアの国境まで、死の行進をさせられました。そのうち約2,000人が、ドナウ川の堤防で無惨に射殺されています。

そのとき、犠牲者たちは靴を脱ぎ、自分の手で射撃される場所からどけておくように強制されました。なぜなら当時、靴は高価な日用品だったからです。2005年に「死者の靴」と題したモニュメントがドナウ川の岸辺に作られ、次のような碑文が刻まれています。

▲ドナウ川の岸辺にある「死者の靴」のモニュメント 出典:Roxy / PIXTA

「1944~45年、矢十字党によってドナウ川に撃ち落とされた犠牲者たちに捧ぐ」

その後、1945年4月、ドイツ・ハンガリー軍は赤軍(ソ連軍)に敗北し、ハンガリーはソ連の占領下に入ってしまいます。そして大戦直後に行われた国民選挙では、独立小農業者党が大勝、王政は廃止され、ハンガリー第二共和国が成立しました。

その2年後の1947年、ソ連軍を後盾とするハンガリー共産党がクーデターを起こし、1949年ハンガリーは、ソ連の衛星国(ソ連の属国という意味)になりました。