武器を手に立ち上がったハンガリーの市民たち

ソ連の衛星国になったハンガリーでは、共産党の秘密警察による親独派狩りが行われ、7,000人以上の人たちが一方的な戦犯裁判を受け、処罰されました。日本も敗戦後、極東国際軍事裁判をはじめとする「戦争犯罪人」裁判によって、約1,000人が処罰されましたが、ハンガリーはその7倍もの人々が処罰されたことになります。

その後も、ハンガリーでは、物資不足と苛酷な人権弾圧を強行するソ連・共産党支配への反発から騒乱が続きます。

▲首都ブダペストを制圧するソ連軍 出典:ウィキメディア・コモンズ

1953年にソ連本国でスターリンが死に、代わってフルシチョフが書記長(つまりソ連の最高権力者)に就任すると、ソ連本国では「雪解け」と言って、政治的自由が容認されるのではないかという期待が高まります。

そのため、ハンガリーでも改革派が台頭し、ジャーナリストや学生が民主化(ソ連・共産圏からの離脱・独立)運動をひそかに始めます。

ヨーロッパでは、民主化とは本来、共産党一党独裁、ソ連による支配から脱却することを意味します。共産党は、民主主義を認めない政治イデオロギーだからです。言い換えれば、共産党と組むことは、民主主義を否定する側になることを意味するのですが、日本では、こうした「常識」がまったく理解されていません。

そして1956年10月23日、いわゆるハンガリー動乱(ハンガリー側は現在「1956年ハンガリー革命と独立戦争」と呼んでいる)が始まったのです。

ハンガリー市民が武器を手に、共産党政権の圧政に対して反旗を翻し、多くの政府関係施設や区域を占拠しました。ソ連のフルシチョフ書記長ならば、多少の民主化は黙認するのではないかという見通しもあってのことでした。

ところがフルシチョフは、この蜂起を「反革命」「西側資本主義国による謀略だ」と決めつけ、10月23日と11月1日の2回、1,000両以上の戦車を中心としたソ連軍を派遣し、蜂起を鎮圧してしまったのです。

その過程で数千人の市民が殺害され、20万人以上の人々が国外へ逃亡しました。

以後、ハンガリーでは、この事件について触れることは禁じられましたが、1989年に共産圏から離脱し、現在のハンガリー第三共和国を樹立した際に、この10月23日を祝日に制定しています。

▲ハンガリーの国会議事堂前には1956年の中央に穴が開けられた国旗が飾られている 出典:Ian Pitchford(ウィキメディア・コモンズ)

※本記事は、江崎道朗:著『日本人が知らない近現代史の虚妄』(SBクリエイティブ:刊)より一部を抜粋編集したものです。