第二次世界大戦終結後、ソ連はさまざまな国を属国として支配。多くの戦争犯罪、そして人権弾圧を行ってきたようですが、それをアメリカやイギリスが見逃していたとなると、学んできた近現代史との違いに驚くかもしれません。評論家・情報史学研究家の江崎道朗氏による、近現代史認識のグローバルトレンドをとらえ、国際社会で通用するための新常識。
ソ連による「戦争犯罪」と「人権弾圧」
第二次世界大戦終結後、ソ連はバルト三国をそのまま併合してしまいました。そのほかに、ハンガリーやチェコなどに対しても、軍事力を背景に共産党一党独裁政権を樹立させ、ソ連の属国として支配したのです。
ソ連の影響下に入った国々では、共産党による一党独裁体制が始まり、実に50年近く、共産党と秘密警察による人権弾圧に苦しめられてきました。
こうした戦勝国ソ連による「戦争犯罪」と、戦後の「人権弾圧」の実態を調査し、告発する戦争博物館を、1990年代以降、中・東欧諸国は次々と建て始めたのです。
そこで、ロシア革命百年にあたる2017年と2019年に、ドイツ、チェコ、オーストリア、ポーランド、ハンガリー、バルト三国を回り、戦争博物館を視察しました。
大半は公的機関である、これらの戦争博物館を見て回って気づいたことは、第二次世界大戦史に関する日本人の歴史認識には、致命的な誤解、盲点があるということでした。
それは、第二次世界大戦において、ソ連は当初から「侵略国家」として非難されていた、という事実です。
1939年8月23日、ドイツとソ連が独ソ不可侵条約秘密議定書〔モロトフ・リッベントロップ協定とも言う。以下「秘密議定書」と略〕を結びました。この「秘密議定書」では、ポーランドの西はドイツ領、東はソ連領にすることや、バルト三国やフィンランドなどをソ連の支配下に置くことが決められていました。
その「秘密議定書」に基づいてドイツは9月1日、ポーランド西部に侵攻(次いでソ連も9月17日にポーランド東部に侵攻)、それに反発した英仏による宣戦布告によって、第二次世界大戦は始まったのです。
つまり第二次世界大戦は、ナチス・ドイツとソ連による秘密協定と、両国によるポーランド侵略から始まったのです。
ポーランド将校虐殺事件を黙認した連合国
このソ連によるポーランド侵略で起こった悲劇の一つが、カティンの森事件です。
1941年6月、ドイツは独ソ不可侵条約を破棄し、ソ連に侵攻しました。ポーランドを分割・占領していたドイツとソ連が戦争を開始した結果、ドイツの敵となったソ連は、イギリスを始めとする連合国の「味方」になっていきます。
イギリスのチャーチルもアメリカのルーズヴェルトも、当面の敵はヒトラー率いるドイツだと考え、ソ連と連携しようとしたのです。
このような状況で微妙な立場に置かれたのが、ロンドンに置かれていたポーランド亡命政府でした。そして1943年4月13日、ベルリン放送がカティンで約4,000人のポーランド将校の死体を発見したと報じ、いわゆるカティンの森事件が発覚します。
ソ連側は「殺害はナチス・ドイツが行った」と声明するようにポーランド亡命政府に要求しました。しかし、ポーランド亡命政府のヴワディスワフ・シコルスキ首相はこれを拒否し、ジュネーブの国際赤十字に解決を委ねます。ソ連はこれに反発し、同年4月25日付で駐ソ・ポーランド大使に外交断絶を伝える書簡を手渡しました。
アメリカもイギリスも、カティンの森事件はソ連の犯行だと疑っていました。しかし両国はソ連との協力を優先させ、ポーランド亡命政府の意向は無視される結果となりました。
現在は、カティンの森事件はソ連の犯行だったことが明らかになっています。冷戦終結後の1990年、ソ連国営のタス通信は「ソ連政府はスターリンの犯罪の一つであるカティンの森事件について深い遺憾の意を示す」と報じました。英米両国は戦時中、ソ連との関係を重視して、ソ連軍によるポーランド将校虐殺事件を黙認した、ということです。