在欧武官会議で唯一、独ソ戦を予告した小野寺
リビコフスキとマーシングの情報が一致したことで、小野寺はドイツが「バルバロッサ作戦」を決行することを確信します。ドイツのソ連侵攻は、もはや決定的でした。
こうしたなか、松岡外相が訪欧しました。モスクワで日ソ中立条約を結ぶ直前の1941年3月です。しかし、ヒトラーは、同盟国の外相である松岡にソ連侵攻作戦を明かしませんでした。
松岡ら日本の中枢は、希望的観測から、独ソ蜜月を前提に、ドイツが英国を屈服させることで、日中戦争を終息できると思い込み、三国同盟にソ連を加えた「枢軸四国協定」で米英と対抗できるという“幻想”を抱いていました。
松岡外相を迎えて、日本の在欧武官会議がベルリンで開かれると、全員が英本土上陸を主張するなか、ひとり小野寺だけが「ドイツはソ連に向かい、独ソ戦が必ずある」と主張しました。
これに対し、ベルリン駐在の西郷従吾補佐官は「英本土対岸の港を視察したが、上陸用舟艇が多数あり、上陸作戦用だった」として「小野寺は英米の宣伝に惑わされている」と非難します。繰り返しになりますが、独ソ戦勃発は、日独伊ソの枢軸四国協定構想にとって「不都合な真実」だったのです。
上陸用舟艇は同盟国も欺くカモフラージュ
しかし、西郷従吾補佐官が視察したドイツ軍の上陸用舟艇は、実は同盟国をも欺くカモフラージュであり、「偽情報による撹乱作戦」でした。
ソ連侵攻作戦を2カ月後に控えたドイツは、同盟国に作戦を知らせることで情報が漏洩し、作戦遂行に影響が出ることを恐れていました。日本が期待するほど、同盟国ドイツが日本を信頼していなかったことは、忘れてはならない歴史の真実です。
「バルバロッサ作戦」開始の約3週間前の6月3日、ヒトラーがようやく大島浩大使に、ソ連を攻撃すると打ち明けました。小野寺の情報は正しかったのです。
想定が外れたベルリン武官室は、ここでようやく「独ソ戦近し」と修正して、東京に打電しました。しかし、日独伊ソの枢軸四国協定に固執した参謀本部は、なお半信半疑でした。
そしてソ連侵攻が始まっても参謀本部は「ドイツのソ連制覇は確実」と、小野寺のドイツ劣勢電報を黙殺し、日本軍を南部仏印に進駐させます。これをドイツに呼応した動きだと捉えた米国が、対日本の石油全面輸出禁止の制裁を取ったため、日米対立が決定的となりました。
日本は情報を軽視し、世界情勢を見渡す客観的視野を欠いていたがために、大東亜戦争の悲劇に突き進んでいったのです。
当時、日本の中枢では、独ソの融和が続き、ドイツが英国を屈服させて欧州戦で勝利するという希望的観測から、最初に立てられた枢軸四国同盟構想の作戦計画が重視されていました。そこから外れた情報は頑なに拒絶されたのです。大東亜戦争開戦のみならず、欧州の戦局をリアルに把握していた小野寺の電報が、ことごとく“抹殺”された理由はここにありました。
大東亜戦争開戦を前に、「作戦重視、情報軽視」で日本政府の中枢は崩壊していたといえます。米中対立が激化する今日の「新冷戦」時代にこそ、この「情報戦の失敗」――インテリジェンスを活かせず、世界情勢を見渡す客観的視野を欠き、勝算なき戦争に突入して惨敗してしまった歴史の悲劇を教訓とすべきでしょう。
乾坤一擲(けんこんいってき)の情報を黙殺され、日本が開戦を選択してしまったことに関して、小野寺はさぞ無念だったに違いありません。黄昏(たそが)れるドイツを頼って無謀な戦端を開いたが、祖国壊滅は絶対に避けたい。そんな信念から、開戦後、小野寺は参謀本部に、こんな電報を打ちました。
「緒戦の戦果は、喜ばしい次第だが、戦争の前途は、憂慮すべきものがある。政戦両略、最善を尽くして、戦局を一刻も早く収めるべし」